act12


住居タワーから少し離れた建物の応接室は、剤が暮らし始めた事で小さな生活空間と変化していた。
サーカステントを燃やしたあの夜の後、剤は怪我人のリモート診療を任され、仕事に打ち込んでは時折現れるイライザに休憩を取らされる。そんな時間を過ごしていた。
しかし、それもどうやら終わりらしい。
とうとうサーカス団の殲滅を任された。
イライザによく似た黒とライトブルーの衣装に身を包み、新調した武器を持つ。
貴方はこれからクイーンビーの討伐に行くのだ。

「お待たせ致しました、いつでも行けますよ。」
彼女がそう声をかけると、「ありがとう。ドアは開けてあるからそのまま外に出て、近くにある瓶を持って外に出て」とスピーカーから声が返ってくる。
ちらりと横を見ると扉横の白いテーブルの上には小瓶が置かれていて、剤がそれを手に取ると、中に満たされた液体とその中に浮かぶものと目が合う。
複眼じみた模様の浮かぶ黒の眼球だ。
その瞳に見つめられ、あの日のことを思い出した。
優雅で尊敬する女性であり、愛らしい素直な後輩、彼女にステージ上で命を救われてしまった日のことを。
あの時に見殺しにでもしてくれていれば。
ー-………なんていう醜い八つ当たりが脳裏を過ってはその思考を遮るようにその瓶を持って、扉に手をかける。
「いってきます。」
呟かれた言葉の中には確かな覚悟が滲んでいた。

外に出れば、パソコンのブルーライトではない陽の光が目を刺した。暫くそれに堪えていれば、目の前に影が落ちる。
きっとこうして鉢合わせるように誘導されたのだろう。
見上げれば、かつての仲間の姿があった。
カツン、と高いヒールの音。ふわりと香る甘ったるい香水の匂い。人目を惹くその姿は、相も変わらず美しく、それであって毒々しい___高貴で傲慢な女王蜂。
「こんな所にいたのか? ハニー。何処にも見当たらないものだから、暫し探し回ってしまったじゃあないか」
軍帽の隙間から蜂蜜のように蕩けた黄色の瞳が覗き、黒く塗られた唇が妖艶に微笑む。
「……なんてな」
彼は貴女の前で足を止めると、軍帽の鍔を軽く指で押しあげて冗談めかすような笑みを浮かべる。意地が悪くも整った綺麗な顔が、剤を静かに見下ろした。
「なんとまあ、貴方様がわざわざ足を運んでくださるとは。光栄です、クイーンビー」
女王蜂の出迎えに恭しく頭を下げ、ゆっくりと頭を上げる。
ーぎょろり
赤い目がクイーンビーを見つめた。
剤は深い隈をこさえ、普段の薄く称えた微笑みや人形らしい表情とは一転、苦々しく彼を見つめている。
良くも悪くも人間味を帯びているだろう。
「ああ、是非とも光栄に思ってくれ」
人間味を帯びた赤い瞳を見つめた後、剤の表情や服装、雰囲気を頭からつま先まで眺めれば、嘲笑うかのように目を細め、彼は言葉を続ける。
「シュルが貴様の事を心配していたぞ。サーカステントが燃やされた後、“剤が攫われた”なんて騒ぎ立てながら我々の元へ訪れるものだから、どれだけ苦しめられているかと思ったが、 ……ユークロニアの生活を楽しんでいるようで何よりだ」

その言葉を聞いて剤は目を丸くする、言葉の意味を理解するように数拍置いたあと
「…………んふ………、ふふふっ、」
耐えきれなくなったように吹き出した。
「……ふふ、いえ、失礼しました。なんでもないんですよ、なんでも………。」
幼い少女が悪戯に成功した時のように、剤は腹をかかえて、そうして、手に持っているものを思い出す。
「ああ、そうですそうです、忘れてしまう前に此方を渡しておきましょうか。どうぞこちらを…」
そうして差し出したのは先程イライザから持っていくよう言われた瓶だ。

美しい毒蜘蛛の瞳をその持ち主の望み通り女王蜂へと献上する。
剤から渡された瓶を受け取り、美しき白蜘蛛の死を悟る。
そうして優雅に液体の中に浮かぶ彼女の瞳をうっとりと見つめれば、つう、と瓶の縁をなぞった。
「ああ……彼女は死んでしまったのか。死しても尚私との約束を守り、敵に瞳を渡すよう懇願するとは、健気な事だ」
「……それにしても残念だな。折角ならばあの美しい女の死に様を、特別な瞬間を、この目で見届けてやりたかった」
「こうして貴方様の元にやってきたのだから良いじゃありませんか。コレクションの一部にでもして大切に…………」
心底同情するように言葉をかける途中、はたと思い出したかのように呟く。

「ああ、でも、私が燃やしてしまったのでコレクションと呼べるものは無くなりましたかね?申し訳ありません。」
「ふふ、減らず口は健在のようだなァ、剤? 貴様の愚行により私の愛しいコレクションが全て灰となってしまった、なんて出来事は実に不愉快で腸が煮えくり返る程腹立たしい」

「しかし、どれだけ美しかった存在も灰となってしまえばゴミと同じ。生憎私は灰になった物への執着が無ければ、貴様のように慈しみや哀れみを持つほど善人でも無い。……つまり、今の私はあれだけ愛してやまなかったコレクションへの興味が一切失せてしまっているのだ」
「その為謝罪は結構だ。代わりに私の寛大さへ感謝願おうか?」
「そうですか、それはそれは良かったです。貴方達の戦力を削ぐためにやったとはいえ、罪悪感はあったので………」
心底安堵したように胸に手を当てて微笑む。

「貴方様はシュルに言われて私を助けに来てくださったらしいですが、」
微笑みを消し、虚ろな表情で宙を見ながら剤は呟く。大切な弟分の事を案じているのだろうか、その伏せたまつ毛越しの真紅には後悔の色が滲んでいるように見えるだろう。
「実際はそうじゃないんですよ。」
一転、顔を上げると胸焼けしそうなほど甘ったるい笑顔をクイーンビーに向けた。
「私、契約したんです。ユークロニアの管理者である彼と。貴方達を殲滅すれば"私だけはクローンにしないでくれる"って。」
緩んだ頬に手を添えて自身の目的を明かす。不意をついたり、油断させるつもりはない様子だ。
「ですのでクイーンビー。私のために死んでください。」
転がってきたそれは指輪ケースほどの無骨な立方体だ。
銀色に輝くそれが一歩一歩ステップを踏むように跳ね、クイーンビーの足元に甲斐甲斐しく辿り着く。
ー………そして一拍、息継ぎのような短い静寂の後、彼は目が眩むような閃光と轟音に包まれた。
「ッ、!?」
サーカス時代と同じ戦闘方法だと考えていた彼は、突然の攻撃を回避する事は出来なかった。
足元に転がった爆弾は彼のブーツを焼け焦げさせ、皮膚をも焼くだろう。けれども彼は痛みに顔を顰めたのも束の間、高らかに笑った。

「……っは、はは! ははははは!!! なァんだ‪‪❤︎‬ 私が見ないうちに、こんなにも素晴らしい武器を手に入れていただなんて! ふふ、ははは……! ああ……ッ、最高だ…ッ❤︎‬‪‪❤︎‬❤︎」
クイーンビーがさしてダメージを受けていない様子を見て、彼女は頬に手を当てて困ったように呟く。
「あら残念……レシピを見ながら調整したはずですが、どうにも自分で作ると威力が足りませんね。」
どうやらそれはユークロニアの人質やサーカステントを燃やした着火装置に剤が手を加えたもののようだ。
「ほう? 貴様の新たな武器は愛しのダーリンが考えた特性の爆薬、という訳か。……ああ、けれども私には暫し刺激が足りないなァ……やるならばもっと四肢が弾け飛ぶ程の威力と派手さが必要だ。そうでなければ‬‪‪私の死には相応しく無いだろう?」
肩に掛けた銃を構え、戦闘態勢へと入る。

慣れた様子で発砲すれば、爆薬の煙を切るように放たれた弾は剤の肩へと向かい、血飛沫を上げさせた。
「………ぐ……、」
容赦のない銃弾を浴び、抉れた肩を手で抑える。手袋越しに血が溢れるのを感じていた。
「それともなんだ、ダーリンだけじゃ物足りないか? ならば私の元に来るがいい。欲求不満で不眠気味の貴様を満たしてやらん事もない」
煽るような言葉を並べ、相手を誘うようにクイッ、と指で挑発する。
「あら、白昼堂々そんな誘いをして、………誰に聞かれているか分かりませんよ。」
クイーンビーの煽るような言葉を聞いた剤の表情に明らかな軽蔑の色が滲んでいた。
「それに早くに始末できるのならとっくの昔にそうしています。私と貴方様は過去に何度も戦っているでしょう。」

そう、Blackwidowがまだ五人だけの小さなサーカス団だった頃、性質が真逆である剤の思想とクイーンビーの嗜好は頻繁に衝突していた。
うっかり命を落としかねないほどに。
その諍いが互いの命を散らす有効打になる前にウィッチ・ゼロトリーが毎回仲裁という名の鉄拳を食らわせ二人仲良く柱に縛り上げられた。
そんな経緯があるものだから、タランテラがやってきて以降二人の衝突はすっかりなりを潜め、陰で手合わせするだけに留めていた。
だから、この二人の関係を知る者は魔女帽のその人だけだ。
「貴方の方ももっと殺す気で狙ってくださいよ。私たちを止めるウチはもういませんよ。」
そういうとまた無骨な爆弾をクイーンビーの顔目掛けて放り投げた。

投げられた箱から顔を守るように手で守れば、シンプルなデザインとは裏腹に破壊力のある攻撃が手を焼く。

“ウチはもういませんよ”

その言葉に、サーカステントが燃えたあの日を思い出す。身を捧げたあの場所で、赤に包まれ燃えた彼女。火がおさまったテント内に、彼女の姿は何処にも見当たらなかった。
「……ああ、そうか。ウィッチは死んだのか」
軍帽の鍔が目元へ影を落とす。悲しみとも捉えられる雰囲気とは裏腹に、口元は婀娜っぽく微笑んでいる。
「ふふ、……そうか、そうか……ウィッチが死んだ今だからこそ、貴様を好きに嬲り殺せるという訳だ‪‪!❤︎‬‬‬‪‪❤︎‬‪‪❤︎  はは、ははは、考えただけでも笑いが出てしまう…‪‪❤︎‬‬」
ウィッチがいなくなった今、彼を繋げる鎖は外されたも同然だった。瞳を爛々とさせた彼の表情は獲物に目をつけた蜂同然。武器の変化に気がついた時と同じく楽しそうに笑っては、剤へと歩みを進める。
「嬲り殺されるのはどちらでしょうね。」

あまりの喜びように剤は一瞬顔をしかめるが取り繕うように優しい笑顔を浮かべた。
「それとももう一度私の後輩になってみますか?そうしたらイライザあたりが止めてくれるかもしれないですよ。」
近づいてくる彼に気圧されることなく、彼女は冷静に爆弾を投げる。一つずつ確実に、彼を死へと誘うために。
地を踊る爆弾が再び彼の皮膚を爛れさせるかと思われた、次の瞬間。
カンッ、と爆弾を相手の方へと器用に蹴りあげた。強い衝撃を受けた爆弾は鮮やかな火と共に熱風を周囲へ噴出させる。足を負傷させるか、はたまた相手を圧倒させる一撃になるか。
一か八かの賭けに勝った彼は剤へ再び銃を構える。ゆらりと揺れる煙の中、剤を狙う銃口が怪しく光った。
蹴り返された爆弾による爆風を一身に受ける。
「ぃ、っ………」
油断した後に浴びる爆弾の威力は相当なものらしい、咄嗟に両の腕で体を庇うが手袋ごと皮膚を焦がした。
銃の照準を見て彼が何処を撃ってくるのか予測を立てる。

お互い、戦い方を熟知した相手だ。むしろ武器が変わっている分剤に利があるのだろう。
彼の放つ銃弾に当たるよう銀を投げこむ 。
博打のような戦い方だが、見事狙いは的中したようで熱風と衝撃がクイーンビーを巻き込んだ。
「あ゛ァ゛……‪‪っ!‪‪❤︎‬‪‪❤︎‬❤︎‬ う、……ふぅ゛……‪‪❤︎‬」
熱風から顔を守るように腕と銃で防げば、飛び散った火花は高価な素材で作られた衣装をいとも容易く劣化させる。じりじりと肌を焼くその熱さが与えるどうしようもない痛みと追い詰められる快楽に、堪らず喉から声が漏れた。
白に包まれ彼の姿が歪んだ時、煙の中から一部が爛れてしまった大きな手が剤を目掛けて勢いよく伸びる。突然の出来事に即座に対応出来なかったであろう貴女の髪を、彼は遠慮もなしに掴んで引っ張った。
「貴様は一つ勘違いをしている」
突拍子もなく彼はそう言うと両手で剤の頭を掴み直し、そのまま膝へ強く打ち付ける。
脳が揺れる程の衝撃に視界の奥で火花が散り、鼻からは血が滴り落ちた。

「私は貴様を助けに来てなどいない。私がここに来た理由は、裏切り者かも知れん女に傷を付けられる屈辱感と、見るも無惨な姿になるまで嬲り殺す高揚感を味わう為だ」
ああそうだ、この人はそういう人だ。
真っ白な火花が散る視界、蜂蜜色の瞳を見ながら剤はそう思案した。
やることなす事めちゃくちゃで、万物は女王様の快楽のために働いている。
だからこそ、クイーンビーの行動は分かりやすいのだ。

口に溜まった血を床に吐き捨て、ここ数日ろくに手入れができなかった爪で彼の左瞼を抉る。
顔に傷がつけばいいと思っていたのだが、眼帯を巻き込むという思いがけないおまけ付きだ。
そうして軽く腹に蹴りを入れると自分より一回りも大きい巨体は容易く突き放される。
「な゛っ」
鈍い痛みと皮膚が裂ける歪な感覚。するり、と隠れた左目に当てられた眼帯が外された瞬間、自身の顔に傷を付けられた事を理解する。しかし、反撃をする暇もなく次の瞬間には軽く腹に蹴りを入れられ、そのまま後ろへとよろめいた。

抑えられた左目の瞼から流れ出た血は指の隙間と頬を伝い、じんわりと衣装へ染みていく。
「この小娘がァ……私の大事な商品に、よくもこんな醜い傷を……」

普段であれば相手から攻撃を受けても尚快楽を楽しんでいた彼は何処へやら、その表情は怒りを滲ませていた。人前に出る彼の顔は、彼にとって何よりも大事な商品なのだ。その美しく価値の高い商品に傷をつけられる行為は、喜びではなく怒りを引き出すトリガーとなる。
カツ、と地に強く踏み込まれたヒールの音がしたかと思えば、長く伸びた足を回すようにして相手に蹴りを入れる。それは剤の体力を減らす目的では無く、傷つけられた仕返しに近い攻撃だった。蜂の針のように尖ったヒールの先は剤の目の下を切りつけ、顔に一つの赤い線を引く。

勢いよく切れた皮膚からは小さく血が吹き出し、柔らかい肉を抉った。
勢いに任せ、再度回し蹴りを入れようと足を上げる。それは確実に剤の顬を狙った高さで、当たればまたも脳がぐらつくだろう。
だが、その蹴りを交わすように剤はつま先で地面を蹴って後ずさる。
空を切るクイーンビーのヒール、あれが当たれば一溜りもなかったのは想像するに容易い。背筋に冷たい汗が一筋伝った。
体勢を取り戻すためにその場で一周、踊り子のようなターンを披露する。まだサーカス時代の癖が抜けきれていないようで赤い血を伴った半透明の上着が美しく広がる。
頬に着いた血を拭い、彼女は誓いをそのまま形にした銀の箱を取り出す。

「………まだ、まだ、死んではいけない…………っ」
そのままクイーンビーの腹に銀をたたきこむ、命中。
爆風と箱の破片が彼の腹をえぐる、それを喜ぶ暇はもうない。
こうして立っていることすらやっとなのだ、ろくな応急処置もできず垂れ流しになっている血が衣装を赤く染め上げ、彼女の限界を知らしめる。

「______〜〜〜〜ッ゛!‪‪❤︎‬‪‪❤︎‬❤︎」
腹部へ今まで感じたことの無い程の痛みが襲い、口内に鉄の味が広がる。デリックが作った爆弾と比べ威力がある訳では無い。けれども何度も攻撃を受けてしまえば、いくら彼とは言えど体の限界を感じざるを得なかった。
黒で彩られた唇は、大量に吐き出された血でルージュへと染まっていく。相手と距離をとるべく後ろへ下がれば、コンクリートに鮮血が新たに染み込んだ。

見つめ合う両者、クイーンビーも剤もお互いに理解していた。
相手も自分も、もう次の攻撃に耐えきれないということを。本能のまま酸素を取り込み肩を上下させる様子は獣そのものだった。
緊張した空気が2人を包み込む。焼かれた皮膚に冷たい空気が当たり、疼くような痛みが体を襲った。
手に持った武器を強く握りしめ、静かに銃を構える。銃口を向けられたのは、かつて仲間だった存在。けれど、彼にはそんな事などどうでもよかったのだ。

______パンッ

乾いた銃声が街に響き、溶けるように消えていった。

弾丸の次の目的地が分かったらしい。
どうにか避けようとするが、その銃弾は脇腹を掠めてしまう。
「………ぁ"あ、……もう、本当に……貴方って人は、」
本来は腹の中心を狙った攻撃、クイーンビーの目論見から逸れてしまったが、争いに終止符を打つには十分だった。
剤は力なく膝から崩れ落ちる。非難の目を彼に向けながら止血しようとしているらしく、青白い顔で撃たれた腹を必死に抑える。
しかし彼女の抵抗に反して血はどんどん吹き出してくる。

契約不履行 。
このまま私が死んだらクローンにされるのだろうか、いや、クイーンビーを倒していたところでどうなっていたか分からないだろう。
契約者の彼がいくら恐れていても、彼の基は"イライザ"なのだから。
人間の道理は通じない。
だから、私は従順な振りをして機会を伺うしかなかったのに。

「クイーン、ビー………、貴方に…………これを、」
剤が彼の名前を呼んだ瞬間、街に設置された監視カメラを銃で破壊する。軽い銃声が何発か響いたかと思えば、銃口から漏れ出た煙をフッ、と吹き消した。
「誰が聞いているかも分からぬ状況、だろう?」
傷を負っても尚意地の悪い笑みを浮かべる彼は、何処までも女王蜂に相応しい風格を持ち合わせている。
「……貴方に、楽………しんで、いただけ、ると、………いいのです、が」
仕留めた獲物の様子を見に来た女王蜂に小さな箱をひとつ押し付ける。
これは保険だ、自分が死んだとしても目的が潰えないように不本意ながらも用意していた保険。
どこまでも不安症な自身の性分を彼女は嘲笑い、言葉を続ける。
剤から小さな箱を渡されれば、それが爆弾では無いことを理解した様子で静かに相手へ疑問を投げかける。
「……これは?」
「私、の……、掌中の珠」
目を細める、こんな局面でも茶化してくる彼に恨み言の一つや二つ言いたいところだが、それはよしておこう。

私は医師なのだから、今ここで私情を挟んではいけない。どんな手を使ってでも、病んだ世界を救わなくては。




「説明書はこちらです。………私なりに考えた、快楽主義の貴方をその気にさせる手札、」
「………切るも捨てるも、お好きなように………選択できるのは、生きている者だけの、特権……です、から……」

ここの所ずっと寝不足だったからだろうか、もう瞼も重い、まともに頭が回らない。
果たして、私の用意した手札は目論見通り快楽主義者の彼を乗り気にできただろうか。
そうでないと困る。クローンになってしまっては、天上に行ってお父さんとお母さんに褒めてもらうという盛大な計画が台無しになってしまうのだから。

ああ、でも今は、 
皆に褒められるよりもデリックに叱られたい。
心からそう思っているのに、目を閉じても浮かぶのは彼の笑顔だけだった。
酷く刻まれた隈の少女の顔は、非常に安らかなものに思える。彼女は最期に何を思い、そして誰を思い出したのだろうか。
……生き残った彼には、検討もつかない。
渡された物に軽く目を通した後、横目で地に伏せた剤へと視線を向ける。その場へしゃがみ、以前より膨らんだ彼女の腹部を撫でつければ、愉快そうに笑って目を伏せた。
「聡明な父と偉大なる母の元で作られた愛しい我が子を私に残すだなんて、最期まで頭のイカれた女だ」

サーカステントから脱走したクローン達を追え。それが、サーカス団員達に下された司令だった。
今思えば、それはサーカス団員達を脅威から逃がすためだったのかもしれない。
そう贔屓目に考えてしまうのは、彼女は彼にとって、幼馴染であり、親代わりのようなものであり、大切な仲間であり、最愛の人であったからだ。
小さな亡骸にそっと近付き、抱きしめる。彼女の流した血液が貴方の白い服を赤黒く汚していくのも構わず、自然と力がこもってゆくのを感じた。

「…ウィッチ?寝てるだけだよね、起きてよ、ねぇ」
ウィッチが寝てるわけじゃないこと、頭では分かっているけどどうしても信じられない。
震える声で何度もウィッチのことを呼んではその小さな体を揺すった。その背中は小さく、まるで母親とはぐれてしまった迷子の子供のようだった。
いつもならば、呼びかければすぐに起きて、やかましいと言いながらも話を聞いてくれた。シュルが不安そうにしていれば気がついて声をかけてくれた。そんなウィッチは今、瞼を閉ざしたままだ。
いくら呼びかけても起きる気配は無い。
まるで、死人のように。

その時、「彼女は死んでるよ」と、後ろから声が聞こえた。

「誰だよ、お前」
ウィッチの死を指摘されたのが不愉快と言わんばかりに鋭い声で問い掛ける。彼女を抱き締める力はより一層強まった。
「僕はユークロニアの管理AI、イライザ。そして君は、サーカス団員のシュル。この街の襲撃者の一員。そうだよね?」
人工知能らしい、機械的な受け答えが帰ってくる。
「だったら何」
振り返って睨みつける。が、その姿は彼の目には威嚇をしている子猫のようにしか映らなかった。
「この街の平和の為に、僕は君を殺さなくちゃいけない」
浮遊するいくつものドローンがシュルの方を向いている。冷淡な無表情の支配者は、それを使って彼を殺すつもりのようだ。

しかし、いつまで経っても体を貫く痛みも息が出来なくなる苦しみも訪れることは無い。
「……でも、ひょっとしたらそうしなくて済むかもしれない。君がこの街の住民となるなら、他の住民と同じように君を保護してあげる」
敵対していたにも関わらず殺さずに助けて貰える。そんな好条件の誘い文句にもシュルの心は少しも動かされなかった。
「そんなの要らない。ウィッチが居ないならそんな世界もうどうでもいい。早く殺せよ」
ウィッチが最優先の彼にとってもうこの世界ではどうしたって生きていけない。目の前の世界が彼女が居ないというだけで灰色に見えるのだ。
こんな世界をこれ以上生きるのなら、いっそのこと死んだ方がマシだ。
しかし、シュルはとんでもなく臆病で弱い人間だった。殺人サーカス団の一員でありながら人を殺すことを自らの手で行えないような甘えた。いいや、どこにでもいるような普通の青年。
自分で自分の命を終わらせる勇気もないからイライザに殺されると聞いて内心ホッとしてた。
自分の気持ちが曖昧なまま続けていたサーカスからやっと離れる事が出来るのだから。

「彼女の事が余程大切みたいだね」
彼はまるで神様気取りに優しく微笑む。彼の心を見透かしたのように瞳の十字が細められて鈍く光るのが見えた。
「じゃあ、彼女の事を生き返らせてあげると言ったら?」
「…そんなことしていいの?俺たちはサーカス団。お前たちにとって助ける義理はない筈だ」
ウィッチを生き返らせる。それはシュルにとって最大の誘い文句であり、都合の良すぎる言葉だった。
今すぐにでも頷きたいが、疑り深い彼はまだ信じてはいないようだ。
そんな警戒心を剥き出しにしたシュルの様子にきょとんと目を丸くしたかと思えばふ、と吹き出して笑い始める。
「あははっ、義理も何も、僕は物で君達は人間でしょ?変なの。モノがヒトの為に尽くすのは当たり前じゃないか」
そして、ホログラムの体は触れやしないというのに、まるで人間のようにシュルの前に手を差し伸べるのだ。
「このまま散るか、もう一度羽ばたくか。どうする?選ぶのは君だよ」

暫しAIの真意を見極めようと見詰めるがAIの思考が自分にわかる訳もなく目を逸らす。
ウィッチがどうせ死んでしまっているのならもう何をしたって変わらない。だからこのAIの言うことに耳を傾けてもいいのでは無いかと、そう思った。
シュルは手を伸ばしてホログラムに触れる。
「いいよ、羽ばたかせてみせろよ」
交渉成立。
この場で彼の選択を咎めるものは誰も居なかった。

住居タワーの地下には、一千万もの培養槽が並ぶクローン生成所があった。
殆どは空の状態だが、液体で満たされているものは未だ胚の状態のクローンが育てられており、たった今も新たなクローンがそこで誕生を迎える。
「おはよう、No.9999430。新たな君の再生とこの街の市民が増えた事をここに祝って、僕からの贈り物だ」
そう無邪気に笑うのはこの街の管理AI、アグダ=イライザ。
嬉しそうに頬を綻ばせ、愛おしそうに目を細めると、機械で出来たその腕で新たなわが子を腕に抱く。

不思議そうに瞬きを繰り返していた、新たなクローンは、彼の背中越しにこちらを見ている人物を見ると声を上げた。
「シュ〜ル〜!」
マリアライトの瞳を輝かせ、ツインテールを揺らし、短い眉を下げて微笑む少女は、シュルに駆け寄った。
腕を広げて嬉しそうに飛びつくその勢いにぐらりと姿勢を崩すのを、慌ててアグダが支える。
「……ふふ、こんな風に元気がいいんだったよね?どう?注文通りの“君が命を救った幼なじみ”のマリアさんだよ。」

神様気取りのAIはシュルに与える。
シュルの協力に足る報酬を。
求められた報酬である、本来とは逆の関係性である認識を植え付けた彼女を。

「マリア…!」
駆け寄って来た少女にシュルは両腕を回し壊れ物を扱うかのように優しく抱き締めた。
離れ難い気持ちを抑え、その丸い輪郭の頬を包み込み、その少女が"マリア"であることを確認する。
「あぁ…完璧だ。ありがとう。礼を言うよ」
アグダに向き合う彼の瞳はどろりと仄暗い。
脳内に鳴り響く警告音は聞かないふりをし続ける。
動いている彼女を見てしまったら、人々が唱える倫理などそれこそどうでもよくなっていた。
「いひひ、どうしたん?シュル、めっちゃ見てくるやん!やめえや」
マリアは可笑しそうにくすくすと笑うとシュルの胸に顔を埋める。
「んーん、なんでもないよ」
大切に彼女を抱き締めるその姿は姉を慕う弟のようにも恋人を慈しむようにも見えた。

「これからはずっと一緒。俺から離れたりしたらダメだからね」
マリアはシュルの言葉に不思議そうにぱちぱちと瞬きを繰り返す。
当然、考えても言葉の意味が彼女に理解出来るはずもない。それでも彼女は頷く。大切な弟の為に、愛しき恩人の為に。
「うん!」
彼女の頭には、サーカス団員の事なんて塵ほども残っていない。
だから、マリアは微笑むのだ。
ウィッチ・ゼロトリーが愛したサーカス団が、壊れてゆくことなんて彼女には関係なかった。

「いい子」
そう呟き愛おしさに頬を緩める。
彼女はシュルだけの理想のマリア。
ウィッチ・ゼロトリーを名乗っていた頃には見ることが無かったその笑顔。
ずっと願っていた愛おしい人の一番。
それを彼は手に入れたのだ。

シュルはマリアと共に生きる事を選び、ユークロニアに与した。
剤がイライザに攫われたとうそぶき、サーカス団達を住居タワーに向かわせたのも、単体行動を勧めたのも全てアグダの指示であったのだ。
アグダはホログラムの姿を出すと、街中に散らばった警備員達に司令を出し始める。

「皆、ありがとう。
残った団員達は住居タワーに向かってるみたい。元気な子はこちらに合流を。負傷した子は遺体の回収をお願い!あとちょっとだけ頑張って……!」
「分かった。任せて」
今シュルがすべき事はこのユークロニアに存在する異物の排除。かつての仲間たちをこの理想のユートピアから追い出す事だ。
かつての仲間たちを、生きた人間を殺めるのにもう迷いも抵抗も無かった。
シナリオ ▸ 五臓六腑
スチル ▸ はむにく 加工済み魚類 匿名スチル班 比喩的 4×6
ロスト ▸ 剤
エンドカード  ▸ 加工済み魚類
剤の裏CSが公開されました。
アグダ=イライザのCSが公開されました。
シュール・ドミネイティングのCSが公開されました。
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