退屈と無関心は人を殺すとはよく言ったものだ。
暇だ。あまりにもやることが無い。公演時間よりも早くに呼び出されたニュンが手持ち無沙汰から舞台裏の機材にでも触れてみようかと考えた時だった。
遠くから微かな話し声が聞こえる。
「ウチ様…!武器をお持ちしましたわ。」
「ん。ご苦労さん、その辺に置いとって」
ゼロトリーと、ニュンの武器を持たされているのでろうタランテラが舞台裏に現れた。話していたのは彼女達であったらしい。
蜘蛛糸の垂れた大きな笠の下で少しばかり明るい表情を見せていたタランテラは、ゼロトリーに向けて言葉を続ける。
「black widowの一員として、『タランテラ』として、名に恥じぬ公演を、崇拝する貴女に捧げますわウチ様。」
「それに…今日は彼のためにも…必ずや、勝利を…」そしてタランテラは右手の小指にそっと触れる。そこにあるのは彼女の白魚の様な指を飾るに相応しい、シンプルながら洗練されたデザイン。蜘蛛の意匠が凝らされた白い宝石の指輪が嵌っていた。
「あ〜っ!蜘蛛のお姉さんだ〜!!……わあ〜!!こうやってみるとおっきいねえ!!ジャンプしても全然足りないやあ〜><」
大袈裟に上げられたニュンの声が二人の意識を攫ってゆく。
彼女はタランテラを見上げながら「ぷんぷん><」と跳ねてみせるが、全く届く気配もなければ、届かせようという意識もないようだ。
要するに、自分は小柄で可愛らしいという主張である。そして狙い通り、タランテラの微笑ましそうな視線を受けると満足そうにニュンは顔を緩ませた。
「お久しぶりね、自己紹介をした時以来かしら、レディ・ニュン、白いお方。本日は私が、素晴らしい公演が行われるようリードさせて頂きますわ。公演の良きパートナーとして、よろしくお願いしますね。」
「身長はニュンおチビちゃんだけどぉ、ニュンの方がリードはじょおすだったり……?ほらほらニュンの小指のこのリボン!!蜘蛛のお姉さんのことリードするためにつけてたのかも、だねっ」
穏やかに微笑むタランテラに対して、ニュンは口元を隠しながらクスクスと笑う。彼女が小さな体を揺らしてみせると、身体中のリボンも踊るように揺れていた。
「うふふ、お可愛らしいこと。そのリボンでリードしてくださるの?」
言葉とは裏腹に、蜘蛛の視線はニュンの真っ白な髪、透き通るような青い目に移ろう。うっとりと口の端を緩める様子から彼女の姿が気に入ったらしい。
「それにしても…とても…とても素敵な御髪ね。瞳も…あの方にとても似ていらっしゃる…。」
「んも〜〜><誰かさんに似てるのかもだけどお、ニュンはニュン!だもん!ぷんぷん!普通に「ニュンちゃん可愛いね♡」とかって言ってくれたらニュンもっとドキドキしたのにぃ……」
そう嫉妬に頬を膨らませると、「ニュンの方が可愛いはずだも〜〜ん」と呟き髪をいじり始める。
「ごめんなさい。配慮に欠けていたわ…。そうね、貴女は可愛いレディですわ。」
タランテラが少し申し訳なさそうに褒めると、ニュンは満足気に微笑む。
タランテラが持つ黒髪とは対照的な彼女の真っ白の髪は、指先の動きに合わせて滑らかに形を変えながら光沢を持つ。その絹のような白が、タランテラを大層惹き付けたようだ。
「ねぇ、白いお方。貴女にお願いがあるのだけど…。」
「私の『お友達』になって欲しいの。」
白の斑点を持つ瞳はうっすらと開けられ、ニュンの姿を捕らえて怪しげに揺れた。
ニュンは小さな口を開け、少しの間惚けたような顔をしていたが、やがて花の咲くような笑みを浮かべる。
「お友達、うんうん!!ニュンも蜘蛛のお姉さんとお友達なりた〜〜い!!」
お化粧の話をしたい、自分の着れない大きい背丈の服を代わりに着て欲しい、等と指折り数えながらやりたいことを挙げていく。夢物語はたちまち片手では足りなくなり、ついには両手さえも埋まってしまう。
「きゃはっ!!やりたいことってこういう時い〜〜っぱい思いついちゃうよねっ!蜘蛛のお姉さんもそうだといいなあ♡でもでもぉ〜、どれもこれも蜘蛛のお姉さんをボコボコにしちゃえばあ、ニュンが蜘蛛のお姉さんのことお人形さんみたいにして遊べるってことじゃない?生きたままお友達もいいけどお、そういうお友達もあるのかも〜!!」
可愛らしい少女から出たおぞましい提案に、タランテラは目を瞬く。当然、それは恐怖からではない。
感動だ。
感極まったように胸に手を置き、「まぁ…まぁ、まぁ…!」と興奮から語調が強くなってゆく。
「それなら、私が死んでも、貴女が死んでも、私達はお友達になれるのね…?」
「そうだよ!ニュン天才!」
「えぇ、貴女はとても天才ね。」
片や少女らしい明るさや無邪気さを。片や美しさや淑やかさを。それら残しながら微笑む彼女達の表情は狂気を孕んでいる。
「嬉しいわ。貴女がお友達になって下さるのが今からとても楽しみ。うふふっ私も貴女に良く合いそうなレースや宝石をたくさん用意してあるのよ。」
タランテラはニュンの目を瞳を開けて覗き込む。
この不気味な目でも?とでも言うかの態度は、ニュンの言ったことが本当か用心深く確かめる為のようだ。
しかし、ニュンはタランテラの姿に脅える様子はない。寧ろ、めいいっぱいに開いた大きな青い目にタランテラの様子をおさめようとしていた。
「ニュンねえ、レースも宝石もだあいすきなの〜っ!!それにニュンに似合いそうなんでしょお!?見せてくれるの『お約束』だよっ!
あとねえ、蜘蛛のお姉さんニュンのことちゃあんと見て?せっかく綺麗なお目目なんだもん!ニュンが勝ったら近くでよおく見せてくれる?これもお約束しちゃおっ!!」
そう満面の笑みを浮かべながら小指を差し出せば、タランテラの小指が絡みつく。
これは約束を違えないことを誓う、指切りの儀式だ。
「えぇ、えぇ、約束しましょう。貴女のためにと準備したものがお気に召しそうで嬉しいわ。必ず見せて差し上げます。」
しかし、そう言ってから残念そうに表情を曇らせる。
「申し訳ないけれどこの瞳は先約ずみなの。けれど…。」
そして、絡めた右手の小指にはまった指輪を指す。先程も触っていた白い宝石の嵌った蜘蛛の指輪だ。それは彼女にとって余程特別なものであるらしく、それを見つめる眼差しは慈しむような優しさがあった。
「サーカス団の中にこの指輪を下さった方がいらっしゃるの。私の収集品の部屋を唯一知ってらっしゃる方よ。身体の一番大きな男性だからすぐにわかるわ。
もし私が死んだら、これに私の血を浸してから持っていって、『収集品を見せてもらう約束をした』とおっしゃってご覧なさいな。きっと連れて行ってくれますわ。」
「『お約束』、したからねっ!破ったやつは地獄に落ちちゃうんだから〜〜>< 蜘蛛のお姉さんもそうならないようにねっ!伝言もちゃんと預かったよお〜!ニュンは絶対に絶対に破らないから、安心してね蜘蛛のお姉さん!その白色、赤色にちゃんとしてあげるっ♡」
そう言って手の力を抜いて小指を解くニュンの表情は、これから見れるものを心待ちにしているような、期待しているような、輝かしい笑顔だった。
「ええやん!死んでもずっと一緒で仲良うしてられるなんて、それって真の友情やんな?ウチもそう思うわ。
二人は仲良うなれる素質があったみたいで嬉しいわ!」
二人の様子を興味深そうに眺めていたゼロトリーが口を挟む。そのままニュンに武器を手渡すとカーテンを開け、舞台の先を手のひらで指し、ステージに上がるよう促した。どうやら話している間に開演の時間になったらしい。
「どうぞ、お上がりくださいレディ達。期待しておりますよ」
にやりと微笑むと二人に目線を向ける。
タランテラは一度優雅にお辞儀をし、ニュンはバイバイ〜と笑顔で手を振ってスキップをしながら、舞台に上がっていった。
二人が舞台へと上がると、「お集まり頂きありがとうございます。これより、殺人ショーの第五幕の公演を開始致します。」というアナウンスが入り、丸いスポットライトの光が二人を照らす。
「彼女は寂然たる大蜘蛛、その一挙一動は恐れるほどに美しい。ひとたび舞台に上がれば既に彼女の手中と心得よ!」
ゼロトリーの言葉が聞こえると同時に、タランテラはいつものように瞳を伏せ、胸に手を置いた。
いつかのゼロトリーが言っていた、熱狂の魔女がかけてくれる『タランテラ』になるための魔法の合図。
剤の補助として初めて舞台に上がった時から続く弱い自分を隠すためのこの行為は、タランテラで居ることに慣れた今も癖となって彼女に染み込んでいる。
演目を同じくするレプスのように明るく人を楽しませる演技はできない。
それでも、この凍てついた冬のような空気は彼女の、彼女だけのものだ。
『タランテラ』は瞳を開ける。
ここから先は彼女の舞台、蜘蛛の巣城。
タランテラは前を見据える。
そして張った糸に足を置くように静寂に一歩踏み入れた。
舞台を見ている全員が気圧されるような雰囲気に、ニュンもまたたじろいでしまいそうになる。しかし、彼女にも負けたくないという意思があった。燃えたぎる闘争心を胸に、手を客席に振り気持ちを紛らわせる。
そして早速武器に手をかけるのだ。
「よしよ〜しっ!ニュン頑張っちゃうんだからっ!どっか〜ん!!」
タランテラの頭目掛けて放たれたロケットランチャーは大きな帽子に穴を開け、頬まで届いた爆風に彼女は目をぴくりとさせる。
垂れた血を拭うと、爪をニュンに向けて糸を放ち、少しずつ逃げ場を無くしながら追い詰めていく。
「ひゃいっ!いや〜〜〜ん!!><ニュンの可愛くてか弱い真っ白な脚が〜〜っ!!><」
糸に切られた白い肌には鮮やかな赤が伝っていた。
「これは貴女を絡めとる蜘蛛の毒糸。本日のモノは幻覚作用が強く症状に出ますわ。」
タランテラの長い爪に仕込まれた毒糸はピアノ線のようなもので、細く見えにくく、切れ味がよい。獲物をじわじわと苦しめることに長けた、彼女専用の武器だ。
「今日の公演のためにデリックに頼んで調節して頂いたのよ。
お友達となる方に苦しいお顔はさせたくない、貴女には幸せな夢を見ながら死んで頂きたいもの。」
「幸せな夢はこんな痛い思いしながら見るものじゃないよお〜〜っ>< ニュンの脚が〜〜うわ〜〜ん><」
不敵に微笑んだタランテラの脚に向けて撃てば、ドレスを焼きその先の素肌を熱風が撫で、火傷特有の痺れるような痛みが表皮に走る。
じりじりと蝕まれるような感覚は、命を奪うには至らずとも痛苦を与える事に特化しているようだ。
「っ…流石ですわレディ・ニュン…。ですが、脚は狙わないで頂けると助かるのだけれど…!」
彼女にこれ以上撃たせるわけには行かない、と銃を持つ手の方を狙って毒糸を放つ。
「獲物を狙うのならば、まずは行動力の脚、そして次は刃向かってくる手…次は…」
胴を絡め取ろうと放った蜘蛛糸は、ニュンが放った爆撃により燃え落ちてしまった。
「あっぶな〜〜い!!危機一髪♡む〜……蜘蛛のお姉さんどんどん大事なところ攻撃してきちゃって可愛くな〜い><」
自慢げに客席に笑顔で手を振れば、真剣な眼差しでこちらを見つめる仲間達が居て、どくんと胸が高鳴る。かつてこのように脇目も振らずに自分の姿を見てくれていた事があっただろうか。
皆が夢中になっている。皆が、自分に注目している。この瞬間は、間違いなくニュンが望んだものであった。
「蜘蛛のお姉さ〜ん!ニュンがちゃあんと代わって攻撃してあげるんだからねっ♡えいえ〜い!」
より一層闘志を燃やして標的を打てば、訓練通りに命中し、タランテラの脇腹から血が溢れる。
彼女は呻き、出血箇所を片手で抑えながら姿勢を崩した。
「ですが貴女こそ、そろそろ毒が回ってくるのではなくて…?」
気丈で艶やかなその表情が、目眩でぐらりと歪んでゆく。嫌な汗が背中に使う感覚すらどこか遠く感じて、胃酸がせり上がってくる不快感に後退りを一歩。
しかし、ニュンのその足は重かった。
「舞台に立つ貴女はとても素敵だわ、レディ・ニュン。そんな貴女にはステージの上の標本がお似合いではないかしら。」
気が付くといつの間にかニュンの四肢には糸が絡みついていた。どうやら動き回った拍子にタランテラが張った糸にかかってしまったらしい。
大きく暴れなければ肌は傷付かないだろうと思われる程度の締め付けの拘束は、しかし一つの傷も負わずに抜け出せる可能性を感じさせないほど精巧に絡み合っている。抜け出そうとすればどこかに傷を負うだろう。
「うふふっとっても素敵よ、まるでスルコウスキーのモルフォ蝶のようね。さぁ、その腕に、脚に、真っ赤なレースを飾って頂戴。」
「わ、わあ〜……ニュンいつの間にこんなにぐるぐるになっちゃってたんだろお〜……標本にしては扱いが雑かもお〜……」
ニュンの笑顔が崩れてゆく。
試しに四肢を軽く動かしてみるも、彼女の言葉通り糸が皮膚を裂いて痛みが走る。ぱたぱたと垂れる血液に気を払う余裕など残っていない。ニュンはとうとう、頭がぼんやりとして、それこそ夢の中へ落ちて行くような微睡みに居た。
負担にならない程度に首を振り、「これは夢じゃない、現実だよ」と言い聞かせながら糸を切ろうと銃の引き金を引く。腕を動かしたからか、銃を打った反動か。絡まった糸で腕をかなり切ってしまったようで、白い体を勢いよく赤が染めていった。
「えっへへ……蝶々をこんなにボロボロにしたらだめだよお蜘蛛のお姉さん〜、ほらほらあ、赤色のレースに見える〜?」
毒によって視界が回り、立つことがおぼつかなくなりながらもタランテラに手を振る。
しかし、ニュンはぎょっと目を見開く。
自分の手がまるで本当にモルフォ蝶のように見えたのだ。
ううんと頭を振って現実現実、と喝を入れながら引き金に指をかけるも、その弾は見当違いの方向へと飛んでゆく。
「あらあら、うふふ、そのままお眠りなさいな。」
ふらふらとするニュンの脚は再び糸に絡まり、そのまましりもちをついてしまう。
哀れな獲物を前に、かうっそりと目を細めるタランテラは、まさに恐れるほどに美しい。
「えっへへ……ニュンとそんなにお友達なりたいんだあ……タランテラちゃん可愛いねえ……ニュンもお友達なりたいも〜ん、お約束したんだもんねえ。でもニュンまだ上半身生きてるからあ、上半身もしっかり仕留めないと標本にできないよお?」
「うふふ、ありがとう。えぇ、お約束だもの、ちゃんと上半身も絡め取って差し上げるわ。これが終わったら…お友達になりましょうね。」
静かに、しかし透き通る声色がサーカステントに響く。
「さぁ紳士淑女の皆々様、フィナーレといきましょう。」
そう観客に告げるとニュンの命を絶つべく、タランテラの爪から毒糸が伸ばされる。この一撃が正真正銘のフィナーレ。誰もがそう感じた時だった。
「……両者、そこまで!」
突如声を上げたイレギュラーは毒糸を旗で払いながら、ステージへと上がる。
まさか。有り得ない、あの魔女に限って。そう思う事だろう。
しかし彼女の確かな足取りは、殺人ショーという台本を破り捨てる意志と覚悟を持つもの。
「糸に囚われ、今にも標本にされしまいそうな此方の愛らしき蝶ですが。皆様は、彼女が毒蜘蛛に憧れていた事をご存知でしょうか?綺麗な衣装。煌びやかな舞台。演者を引き立たせるスポット。熱に浮かされた観客の視線。ええ、彼女が求めるものはここにあるのです!」
それは、サーカステントの全員に向けた弁論であった。これは規律を破ってまで描いた演目のシナリオ。舞台の上の物語は、必ず意味を持つのだ。
「私はこう思うのです。
誰もが輝く機会を持つべきであると。そして、レディ・ギューギューは特別です。彼女は間違いなく、サーカス団員となれる器の持ち主です!」
そして、ニュンの前に手を差し伸べる。
救世主か魔女か。果たして彼女の霞んだ目にはどう見えたのだろう。
「さあ……このまま散るか、もう一度羽ばたくか。選ぶのは貴方様でございます。」
ニュンは幻覚か何かだろうか、と思った。
魔女っ子ちゃんが手を差し伸べてくる。これはきっとこっちに羽ばたいて見てよと手を差し伸べてくれるんだろう。
そうだ。綺麗な衣装。煌びやかな舞台。演者を引き立たせるスポット。熱に浮かされた観客の視線。本当は本当は、ニュンが求めるものはここにあるの!
そう思いながらも、重たい体は言うことを聞かない。ぴくりとも動かないのだ。
「え〜、魔女っ子ちゃ〜ん……こういう勧誘はあ、二人っきりの時って、前に言ったじゃんニュン〜……」
「きゃはは、夢みたいなお話だねえ……夢だもんねえ……。綺麗なお洋服着て、かわいいって、いろんな人に言われるのがニュンの夢だし、なんだかさっきからとっても眠いから、これはきっと夢なんだもんねえ……」
ぼんやりと微睡んだ思考はいつもの着飾った心ではなく本心だった。
お友達になってくれると言っていた彼女が、白い彼女が、この自分を怖がらない彼女が。どちらも欠けることなく一緒にいられる未来があるかもしれないなんて、なんと素敵な事だろうか。
ゼロトリーの言葉を聞いていたタランテラは、期待に胸を高鳴らせていた。
タランテラはニュンのそばに屈むと、「あゝ、白いお方、麗しの貴女、愛おしき私の純白の蝶々。お約束通り、私の本当のお友達になってくださいませ。共に時を過ごしましょう。」「貴女にレースを、宝石を。私の手で美しく着飾らせて差し上げますわ、私の小さく可愛らしいお友達。」そう囁く。
タランテラの言葉に、自ら好いてと振り撒く一方、心の底から可愛いと愛してくれる人も、一緒にいてくれる人も本当はいなかったのかも、と胸がチクリと痛んだ。
それなりに平和だった生活も、どこか自分のことを傷みつけていたんだと思うと、少しだけ我慢していた熱いものがポロポロと溢れる。
「ニュンねえ、こう見えても可愛いとか嫉妬とかしない、普通のお友達って憧れてたんだあ……。そういうのより本当は、一緒に可愛いこととか楽しいこととかして、誰かにずうっと覚えてもらいたかったの」
目の前の黒い瞳は愛おしい者に向ける感情を灯しながら、愛おしむように片手の爪で頬を撫ぜる。
ニュンの言葉を一言一句聞き逃さぬように、耳をすまして真っ直ぐに自分を見ていてくれる、それがどうしようもなく嬉しくて。
まるで魔法にでもかけられたかのように、あれほど鉛のようだった腕は動かせるようになっていた。
「誰かからそういうの言われたの初めてかもお……えへへ……一人でしか遊べないって思ってたけど、二人でも一緒に遊んでくれるのタランテラちゃん?ニュン、きっと本当はずっと一人で過ごしてたから、一人じゃない遊び方わかんないかもだけどいいのかなあ」
ニュンはタランテラの手に自らの手を重ねて、そう問いかける。
「まぁ、そうなのね…。お可哀想なニュンさん…。でも、そうね、私も…過去を引きずって、きっとずっと見た目を嫌って、白に執着して…。
でもね、今日の公演前、貴女が目を見ても怯えなかったでしょう?それどころか綺麗だって言ってくれて…白い貴女にそう言ってもらえることが、何より嬉しかったの…」
タランテラの精巧な氷細工のような美しい表情が溶けてゆく。代わりに彼女が浮かべたのは、少女のような初々しさの残る笑顔だった。
「一緒に遊びましょう。私もここに来るまでは一人だったから…一緒に楽しいことを見つけていくのも素敵だと思わない?」
「えへへ……レースも、宝石も、タランテラちゃんの手で美しく着飾らせてよ……!ニュンもそうしてあげるよ、いっぱい、いっぱい……!収集品も見せてくれるお約束、したし……お約束これからもいっぱいしよう、ね」
公演前にやったように、タランテラとニュンは小指と小指を絡ませる。それは二人だけの大切な儀式の様にも見えることだろう。
「それで、どうする?」
魔女が再び問いかける。
それに、勿論とでも言うように、ゼロトリーの手にニュンの手が重なった。
「それでは新たな毒蜘蛛の誕生に拍手を!!」
その声と共に、サーカス団達の拍手が沸き立つ。
ゼロトリーはどよめく観客席の方を見やると、タランテラにしか聞こえないような小声で話しかける。
「イヒヒッ……予想外の展開に舞台は大混乱!思った通りやな。阿呆、道化ならおもろい方に進行するのが役目に決まっとるやろ!なあタランテラ、ウチがブラックウィドウに勧誘した時の事覚えとるか?」
「えぇ、もちろんですわ。貴女が深い底にいた私を救ってくださった。忘れられるはずもありません。」
タランテラはゼロトリーの手を取ったまま気を失ってしまったニュンを抱えると、小さな救世主を見て答えた。
「それと同じ役割をタランテラに任せたい。今後はニュンの教育係として励むように」
ゼロトリーはそう言うと、再び客席の方へと声を張り上げる。
さあ、いつもの締め括りの時間だ。
「さあ、次回公演のお知らせです。次の舞台を披露して頂くのは、ミスター・バレンタインとクイーンビー。御二人はどのような演目を見せてくれるのでしょうか?是非ご期待を!」
「わ、わあ〜……ニュンいつの間にこんなにぐるぐるになっちゃってたんだろお〜……標本にしては扱いが雑かもお〜……」
ニュンの笑顔が崩れてゆく。
試しに四肢を軽く動かしてみるも、彼女の言葉通り糸が皮膚を裂いて痛みが走る。ぱたぱたと垂れる血液に気を払う余裕など残っていない。ニュンはとうとう、頭がぼんやりとして、それこそ夢の中へ落ちて行くような微睡みに居た。
負担にならない程度に首を振り、「これは夢じゃない、現実だよ」と言い聞かせながら糸を切ろうと銃の引き金を引く。腕を動かしたからか、銃を打った反動か。絡まった糸で腕をかなり切ってしまったようで、白い体を勢いよく赤が染めていった。
「えっへへ……蝶々をこんなにボロボロにしたらだめだよお蜘蛛のお姉さん〜、ほらほらあ、赤色のレースに見える〜?」
毒によって視界が回り、立つことがおぼつかなくなりながらもタランテラに手を振る。
しかし、ニュンはぎょっと目を見開く。
自分の手がまるで本当にモルフォ蝶のように見えたのだ。
ううんと頭を振って現実現実、と喝を入れながら引き金に指をかけるも、その弾は見当違いの方向へと飛んでゆく。
「あらあら、うふふ、そのままお眠りなさいな。」
ふらふらとするニュンの脚は再び糸に絡まり、そのまましりもちをついてしまう。
哀れな獲物を前に、かうっそりと目を細めるタランテラは、まさに恐れるほどに美しい。
「えっへへ……ニュンとそんなにお友達なりたいんだあ……タランテラちゃん可愛いねえ……ニュンもお友達なりたいも〜ん、お約束したんだもんねえ。でもニュンまだ上半身生きてるからあ、上半身もしっかり仕留めないと標本にできないよお?」
「うふふ、ありがとう。えぇ、お約束だもの、ちゃんと上半身も絡め取って差し上げるわ。これが終わったら…お友達になりましょうね。」
静かに、しかし透き通る声色がサーカステントに響く。
「さぁ紳士淑女の皆々様、フィナーレといきましょう。」
そう観客に告げるとニュンの命を絶つべく、タランテラの爪から毒糸が伸ばされる。この一撃が正真正銘のフィナーレ。誰もがそう感じた時だった。
「……両者、そこまで!」
突如声を上げたイレギュラーは毒糸を旗で払いながら、ステージへと上がる。
まさか。有り得ない、あの魔女に限って。そう思う事だろう。
しかし彼女の確かな足取りは、殺人ショーという台本を破り捨てる意志と覚悟を持つもの。
「糸に囚われ、今にも標本にされしまいそうな此方の愛らしき蝶ですが。皆様は、彼女が毒蜘蛛に憧れていた事をご存知でしょうか?綺麗な衣装。煌びやかな舞台。演者を引き立たせるスポット。熱に浮かされた観客の視線。ええ、彼女が求めるものはここにあるのです!」
それは、サーカステントの全員に向けた弁論であった。これは規律を破ってまで描いた演目のシナリオ。
「私はこう思うのです。
誰もが輝く機会を持つべきであると。そして、レディ・ギューギューは特別です。彼女は間違いなく、サーカス団員となれる器の持ち主です!」
そして、ニュンの前に手を差し伸べる。
救世主か魔女か。果たして彼女の霞んだ目にはどう見えたのだろう。
「さあ……このまま散るか、もう一度羽ばたくか。選ぶのは貴方様でございます。」
ニュンは幻覚か何かだろうか、と思った。
魔女っ子ちゃんが手を差し伸べてくる。これはきっとこっちに羽ばたいて見てよと手を差し伸べてくれるんだろう。
そうだ。綺麗な衣装。煌びやかな舞台。演者を引き立たせるスポット。熱に浮かされた観客の視線。本当は本当は、ニュンが求めるものはここにあるの!
そう思いながらも、重たい体は言うことを聞かない。ぴくりとも動かないのだ。
「え〜、魔女っ子ちゃ〜ん……こういう勧誘はあ、二人っきりの時って、前に言ったじゃんニュン〜……」
「きゃはは、夢みたいなお話だねえ……夢だもんねえ……。綺麗なお洋服着て、かわいいって、いろんな人に言われるのがニュンの夢だし、なんだかさっきからとっても眠いから、これはきっと夢なんだもんねえ……」
ぼんやりと微睡んだ思考はいつもの着飾った心ではなく本心だった。
お友達になってくれると言っていた彼女が、白い彼女が、この自分を怖がらない彼女が。どちらも欠けることなく一緒にいられる未来があるかもしれないなんて、なんと素敵な事だろうか。
ゼロトリーの言葉を聞いていたタランテラは、期待に胸を高鳴らせていた。
タランテラはニュンのそばに屈むと、「あゝ、白いお方、麗しの貴女、愛おしき私の純白の蝶々。お約束通り、私の本当のお友達になってくださいませ。共に時を過ごしましょう。」「貴女にレースを、宝石を。私の手で美しく着飾らせて差し上げますわ、私の小さく可愛らしいお友達。」そう囁く。
タランテラの言葉に、自ら好いてと振り撒く一方、心の底から可愛いと愛してくれる人も、一緒にいてくれる人も本当はいなかったのかも、と胸がチクリと痛んだ。
それなりに平和だった生活も、どこか自分のことを傷みつけていたんだと思うと、少しだけ我慢していた熱いものがポロポロと溢れる。
「ニュンねえ、こう見えても可愛いとか嫉妬とかしない、普通のお友達って憧れてたんだあ……。そういうのより本当は、一緒に可愛いこととか楽しいこととかして、誰かにずうっと覚えてもらいたかったの」
目の前の黒い瞳は愛おしい者に向ける感情を灯しながら、愛おしむように片手の爪で頬を撫ぜる。
ニュンの言葉を一言一句聞き逃さぬように、耳をすまして真っ直ぐに自分を見ていてくれる、それがどうしようもなく嬉しくて。
まるで魔法にでもかけられたかのように、あれほど鉛のようだった腕は動かせるようになっていた。
「誰かからそういうの言われたの初めてかもお……えへへ……一人でしか遊べないって思ってたけど、二人でも一緒に遊んでくれるのタランテラちゃん?ニュン、きっと本当はずっと一人で過ごしてたから、一人じゃない遊び方わかんないかもだけどいいのかなあ」
ニュンはタランテラの手に自らの手を重ねて、そう問いかける。
「まぁ、そうなのね…。お可哀想なニュンさん…。でも、そうね、私も…過去を引きずって、きっとずっと見た目を嫌って、白に執着して…。
でもね、今日の公演前、貴女が目を見ても怯えなかったでしょう?それどころか綺麗だって言ってくれて…白い貴女にそう言ってもらえることが、何より嬉しかったの…」
タランテラの精巧な氷細工のような美しい表情が溶けてゆく。代わりに彼女が浮かべたのは、少女のような初々しさの残る笑顔だった。
「一緒に遊びましょう。私もここに来るまでは一人だったから…一緒に楽しいことを見つけていくのも素敵だと思わない?」
「えへへ……レースも、宝石も、タランテラちゃんの手で美しく着飾らせてよ……!ニュンもそうしてあげるよ、いっぱい、いっぱい……!収集品も見せてくれるお約束、したし……お約束これからもいっぱいしよう、ね」
公演前にやったように、タランテラとニュンは小指と小指を絡ませる。それは二人だけの大切な儀式の様にも見えることだろう。
「それで、どうする?」
魔女が再び問いかける。
それに、勿論とでも言うように、ゼロトリーの手にニュンの手が重なった。
「それでは新たな毒蜘蛛の誕生に拍手を!!」
その声と共に、サーカス団達の拍手が沸き立つ。
ゼロトリーはどよめく観客席の方を見やると、タランテラにしか聞こえないような小声で話しかける。
「イヒヒッ……予想外の展開に舞台は大混乱!思った通りやな。阿呆、道化ならおもろい方に進行するのが役目に決まっとるやろ!なあタランテラ、ウチがブラックウィドウに勧誘した時の事覚えとるか?」
「えぇ、もちろんですわ。貴女が深い底にいた私を救ってくださった。忘れられるはずもありません。」
タランテラは手を取ったまま気を失ってしまったニュンを抱えると、小さな救世主を見て答えた。
「それと同じ役割をタランテラに任せたい。今後はニュンの教育係として励むように」
ゼロトリーはそう言うと、再び客席の方へと声を張り上げる。
さあ、いつもの締め括りの時間だ。
「さあ、次回公演のお知らせです。次の舞台を披露して頂くのは、ミスター・バレンタインとクイーンビー。御二人はどのような演目を見せてくれるのでしょうか?是非ご期待を!」