「それが人様にものを頼む態度か?」
クイーンビーは深い溜息をつき、冷酷な低い声でそう言えば、無機質な床にピンヒールの音を響かせながらアグダの方へと足を進める。
アグダの言った、“会いに来てくれたところだけど、今から記憶処理を受けてこの街から出ていってくれ。断るならば、容赦はしない”という言葉。その後ろで武器を構えるアイザックとジル。
要するに、武力を盾に言うことを聞かせようと言う魂胆だ。
「交渉を行いたいのならば、構えた武器を下ろせ無礼者。貴様としてもこれ以上大切なペットの殺戮ショーは見たくないだろう?」
クイーンビーは背後に立った二人を軽く睨んだ後、再度アグダへ視線を戻す。
無礼者。殺戮ショー。アイザックはそれらの言葉に眉を顰めると、武器を握り直す。
「……アグダ、ごめん。大人しく、言うこと聞いてられないかもしれない。」
「アイザックさん……!?」
「俺が……君たちを許さないと言っていた。……もう言った覚えもないけれど、俺の……彼の輪廻の果ては今新しいクローンとしてここに立っている。……だから……」
彼はゆっくりと、武器の切っ先をサーカス団の二人へと向ける。
「脅威は徹底的に潰しておくべきだよ。俺は…自分の意思を尊重したい。」
「……私も、同意見。」
「ジルさんまで……」
「貴方達が条件をのんでここから立ち去ったとしても、また計画を練って私達に攻撃を仕掛けられたらたまったもんじゃないと思うの。今、貴方達の下劣で最悪な態度をみて尚更そう感じた。」
なるべく話し合いで解決して、損害を最小限に抑えたい。それに、サーカス団の彼らにだって幸福になる権利がある。街から出て行ってくれるならばこちらとしても何も文句は無いから、ここ以外のどこかで楽しくやってくれればいい。
アグダはそんな自分の考えの甘さに唇を噛み締める。
しかし、戦闘を避けたい理由はもう一つあるのだ。
「確かにここで脅威を潰せば、今後彼らがまたユークロニアに来ることに怯えて暮らすことは無いだろう。……しかし既に再生を受けた君達が、この街の為に二度も命を尽くして戦う、なんて……」
嫌な未来を想定して、言葉が尻窄みになる。サーカス団に無惨に殺されたアイザックとジルの姿はまだ記憶に新しい。もし、同じ事がまた起きてしまったら。そんなのまるで、二人を殺すために育てたようなものじゃないか!
しかし、アグダの心配とは裏腹に、彼らの表情は明るく、頼もしいものだった。
「私はユークロニアの為だったらなんだってするって言ったよね?先生が作ってくれたこの身体とユークロニアの技術があるから何も怖くないよ。この機会こそが頑張り時だよね!」
「言ったでしょ?アグダ。俺にまた命を与えてくれたのはアグダなんだから、君と共に戦わせて欲しいって。」
アイザックはアグダに笑いかけるとサーカス団へと歩みを進める。一歩一歩、ユークロニアの地を踏みしめるように、大事に。
「ニュン、久しぶりだね」
彼は見慣れた笑顔で美しく青い蝶へと話しかける。何も変わらない、少し困ったような微笑みだ。
「……少し、煌びやかで見慣れない格好だけど。それが本当にニュンがなりたかった姿なの?それがニュンの幸せ?……君の幸せに、アグダやユークロニアはもういらない?」
「えっへへ!!アイザックお兄ちゃーんっ!!元気そうで何より……?うーん、また元気になれてよかったね?きゃはは!よくわかんなーいっ!」
ニュンはアイザックに手を振ると、可愛らしく小首を傾げた。
「えーっ?アイザックお兄ちゃん今のニュン見て何にも思わないのお?こーんなにキラキラしてて、ふりふりしてて、クルーっと回るとふわーってなるお洋服!可愛いでしょお。
スポットライトは今はないけれど、誰かに従わないで自由に飛んで行けるのって、すっごく幸せなんだよお〜っ!今はないスポットライトを探しにいけちゃうんだからっ!
アイザックお兄ちゃんは、自由になって、いろんな色を見に行きたいなって思わないの?知らないまま死んじゃうなんてえ、すっご〜〜くもったいないな〜ってニュン思うなあ。 」
そして、そのままアイザックに近づくと、衣装を見せびらかすようにくるりと一周ターンをしてみせた。
「はは、ニュンこそ元気だね。かわいいよ、よく似合ってる。変わりないようで安心……いや、変わっていてほしかったな。もう昔のニュンの面影を君に見たくはなかった、別人だと割り切れたらどれだけ楽だったかな」
アイザックは明るく返答するニュンに対して寂しそうな表情を見せる。彼の瞼の裏にはまだ、同じ警備員の仲間として過ごしたニュンの姿があった。
サーカステントで何が起きたか、アグダのドローンが撮影した記録に目を通して理解は出来たものの、心はついていける筈もない。
あれは何かの間違いで、彼女の居場所はユークロニアにある。そんな淡い期待は打ち砕かれた。
「……ニュンは自由が大切なんだね、でも……俺はそういう自由とか、いらないんだ。おかしいって言われるかもしれないけど、これこそが俺自身だって、認められるようになったから。スポットライトも、舞台も何もいらない。ユークロニアだけがあればそれでいいよ、ここだけが俺を幸せにしてくれるんだから。」
前のアイザックであれば、曖昧な返事を返していた事だろう。
しかし、彼は首を振って、ニュンの言葉を否定した。
アイザックの覚悟はアグダにも伝わったようで、小さく息をつき、拳を握りしめるとドローンのレーザー銃をニュンに向けた。
「……まずは君から。パパの手から飛び立つ為の翅なんてもいで捨ててやる。」
熱光線は白い肌を貫き、もいで捨てるという言葉の通り、赤色の混じった衣装が少し散って地面に落ちた。
いつも自分の味方だった物は見かけよりもずっと恐ろしいものだったらしい。ニュンはアグダをキッと睨みつけると当てつけのようにジルに向かって発砲する。
「う゛ッ!……い、いったーーい!!最低、最低最低最低!!それだったらっ、ニュンの幸せだって守って、そこの奴らにもアンタにも教えてあげるんだからっ!!」
昂った感情のままに打った銃弾は空を切り、振動が傷に響いて脈立つ感覚がうるさい。
ジルもまた、標的をニュンに定めて大きく剣を振り翳す。
ニュンは間一髪でそれを避けるとべ、と赤い舌を出して挑発した。
「……ッ!……もぉ…避けないでよ…っ!」
先ほど攻撃を外したニュンの苛立ちは痛みで増していくばかり。今度はきちんと、相手の、顔面を捉えて。けれど投げやりに勢いのままトリガーを引く。それは今までの練習の成果、それとも天性の才か、目元を思い切り焼き尽くすように命を削ることができた。
「きゃは、あはは!!外してばっかりでダサいダサいダッサーい!!ねえねえニュンのことジルちゃん見えてる?見えてるっ?ごめんねせっかく可愛いお顔潰しちゃってえ!!」
「い゛……!?っ、…うっ……!」
ジルの視界が赤と黒に包まれ、咄嗟に顔に手を当て膝をつく。幸いにもニュンの銃弾は脳を傷付けるには足らなかったが、骨と肉の間に異物が残り続ける痛みは耐え難い。
それは、今自分はなぜここで戦っているのか──それすらも忘れてしまいそうな程。
アグダは咄嗟にジルの痛覚神経をブロックし、閉ざされた視界の代わりに付近のドローンからの映像を送信する。
「あ、あれ……?痛くない……目も見える……?」
困惑しつつも、剣を握り直すジルをよそに、アグダはニュンを睨みつける。
「ジルさんの痛覚を遮断した。この街で育ったはずの君がどうして皆を傷付けられるんだ。一緒に育ったはずの彼女を、仲間達をこんな目に合わせて笑っていられるんだ!どうして、」
そんな子に育ってしまったんだ。そう言いそうになった口をぎゅっと結ぶと、レーザー銃の銃口をニュンに向ける。
「早く、早く死んでよ!これ以上誰も傷付けないで!」
アグダの叫びと共に、熱光線の銃弾は音もなく、ニュンの肩を貫く。肉の焼ける嫌な音と匂いが広がった。
「ねえ、やっぱりニュンのこと嫌いだよね?だってだって、好きだったら、好きだったらさ、そんなことしないもんねっ?ねえねえ痛いって言ってるじゃーん。本当に、はあ、なんでこんなところに生まれてきちゃったんだろう。」
かつての父親だった、そんな認識は痛みともにどうしても蘇ってくるようで。それならば妬む心があったって誰も責めはしないだろう。むしろここで死なない事さえ地獄が続いてるようで、本当に最悪な気分だ。
「だってみんなおかしいもん。何度も何度も同じことの繰り返しって、それってきっとつまんないもん。というかさあ……持っている記憶と瞬間の記憶って別物じゃん?ニュンは瞬間の記憶の価値を見つけただけなんだけど。複製品に価値なんてないよ。何もおかしいことなんてなかったってみんなの目、気持ち悪いんだよ。」
鬱屈とした心はゆらりと俯き加減に。しかし備わっている撃ち抜く心は常に前を向いている。可哀想に、痛みで目元を庇っていた少女の姿に、もうかつての仲間だったことなんて重ねる隙もなかった。ただの敵だ。そう意識することもなく、そんな無意識を常識のように相手の胸を目がけてトリガーを引いた。
「…く…っ……!……ふふ、あはは、はは!すごい、全然痛くないや。」
痛覚の遮断なんてますます人間離れした事をさせるものだ。血に塗れながらも不敵に笑うジルは、同じ人間だとは思えなかった。
❖
此方に噛み付く態度を見せる二人とは対称的に、クイーンビーはやけに冷静だった。相手が三人である事に対し此方は二人。人数有利を取られるのは目に見えており、それに加えてニュンの体力面も不安視していた。なるべく此方が不利にならぬよう事を進めたいと思っていたが……そうはいかないらしい。
始まってしまったものはしかない。
鍔に手を添え、軍帽を深く被り込む。幾つもの戦いを共にしたマシンガンを慣れた様子で構えると、生成されてからまだ人間を相手にした事がないであろうアイザックを誘うように、彼の足元すれすれのリノリウムに軽く発砲してみせた。
「私も仲間に入れておくれよ、ハニー❤︎」
身体も記憶も覚えていないけれど、アイザックの奥底にある本能だけは、自らの命を奪った男から発せられるその言葉を覚えていた。銃声にそちらを見やると、クイーンビーの視線に神経をなぞられたような感覚にゾクリ、とする。
ライトブルーの瞳孔が映された黒の瞳に、ほんの一瞬滲んだ本能的な恐怖。クイーンビーはその隙を狙い、相手の動きを制限すべく太腿から脛に掛けて銃を発砲してみせれば、傷一つない足からは鉄臭い赤が漏れ出し、清潔感溢れる白の衣装をじんわりと染め上げた。
「あァ"……ッ、クソ……!」
まだ新しい身体では受けたことの無かった痛みに、咄嗟に足を庇うような体制をとる。そのまま大剣を振りかぶってクイーンビーを切りつけようとするも、足の傷が邪魔をしてうまく距離を詰めることが出来ず、華麗に避けられてしまった。
クイーンビーは痛みに悶えるアイザックを見つめ、目を細める。まさか、再びこの男をいたぶる事が出来るなんて。そう思うと、あのまま大人しくアグダの条件を引き受けようと考えていた自分が馬鹿馬鹿しく思える程、この状況が愉快で堪らなくなっていた。
「死に対する恐怖が抜けきっていないようだなァ……ふふ、チェリーボーイには少々刺激が強すぎたか?」
冗談を口にしながら足を引き摺る相手をクスクスと嘲笑すると、人を殺すとは思えない楽しげな足取りで次の標準を定める。
「もう死ぬことなんて怖くない、そうだろ……!?頼む、動いてくれよ俺の足、ねぇ……!」
アイザックは己の意志に反してうまく動かせない足を必死に無理やり引きずり、そのまま反撃を試みるも乱れた太刀筋は簡単に見切られてしまった。
まずい、次の射撃が来る───アイザックは身構えるが、機関銃の銃口はこちらを向いていない。
まさか、と標準の先を目で追うと、そこにはニュンに必死な様子で此方に気がついていないアグダが居た。
彼を視界に捉えると、考えるよりも先に身体が動く。人が呼吸をするように、犬が吠えるように、そんな理の当然。先程の足の痛みはどこへやら。否、今もまだそれは嫌という程主張を続けているが、条件反射を前には足枷にも及ばない。咄嗟にその射線上に割り込むように地面を蹴って身を滑らせ、アグダを庇うようにその攻撃を受ける。
「~~ッ、ァ゛……!?」
「愛される側も困ったものだなァ……相手が浮気を許さないタイプだと特に。」
守るべきものがあると人は強くなる、なんて言葉は誰が言ったものか。極めて静かに、しかし確実にその銃弾はアイザックの左肩を貫く。異物に軌道をズラされた銃弾は求めた的を射抜くことは無く、ユークロニアの硬い地面を傷つけるだけに留まった。傷口から拍動と共に吐き出される血液は、じわりと蝕むように真新しい半透明とライトブルーを赤く染め上げていく。大丈夫、まだやれる。ただでさえ高度な演算を常に行っているアグダの意識を、こちらにまで向かせる訳には行かない。そっと横目でニュンと対峙するアグダを確認すると、安堵で息を小さく吐く。
「ダメだよ、アグダを壊そうと考えるなんて。」
痛み、恐怖、不安、全てを誤魔化すために薄い笑みを口元を浮かべ、諭すように目線を送る。灰色の瞳は何も映さず、奥のない気味悪さだけがライトブルーの下で揺らぎを見せていた。既に深手を負っているにも関わらず、何度でも大剣を握り直す様子は、不屈の精神を超えてもはや生ける屍のよう。
「……不快だな、態度も言動も何もかもが。他人の特別で飾り立てて、さも自分自身に価値があると勘違いしている。……作り替えるより、破棄の方がいいね。」
余裕綽々な女王相手に、確実な一手を。生成所から見た、彼と剤の戦闘を思い返す。些細な傷ながらも、明らかに通常とは反応が異なっていたあの瞬間──少しの隙でも生まれれば上々、そのトリガーを引くためにまずは無闇矢鱈な大振りと共に距離を詰める。雑な攻撃は簡単に躱され、空を切った大剣はそのまま後ろに重心を引く。
その勢いを殺さぬように身体ごとその場で一周すると、次は腰を低く落として下から上へ。巨体が故に下からの攻撃には反応が鈍くなるだろうという予想は的中、防ごうとしたクイーンビーの右腕に浅い切り傷を残すも、その程度。
狙うは恍惚に浸る美しい顔、それのみ。振り上げた大剣を空中で握り直して左逆手に持ち変えると、重さを感じさせない動作で横へと振りかざす。左肩の感覚が失われていく自覚はあったからこその、一種の賭けではあった。切っ先は美貌を傷つけ、白い肌に赤を生む。
「っ、ここが君にとって一番大事で価値が高い、ねぇそうでしょ?」
「……ッ゛!」
クイーンビーは顔に走った痛みに思わず目を見開く。剤に引き続き商品となる顔を傷つけられ、戦闘に集中していた意識は一気に自身の顔へと向けられる。
剤から受けた攻撃は髪で隠れる場所だった為、最悪隠す事は出来るが……今回はそうはいかなかった。右目の下から左頬まで伸びる赤い線。それは実に不愉快で醜い、最悪なものであった。
「……貴様ァ……」
額には薄らと血管が浮かび上がり、低く唸るような声で相手を鋭く睨みつける。
こんな状況で感情任せになるのは良くない。しかし、腸が煮えくり返る程の怒りが湧いているのもまた事実。
頭に昇った熱を逃がそうと息を吐く。……兎に角、相手を殺す為にも大剣が振るえない程まで距離を詰めよう。そうして、相手が不利な状況になった際にこの怒りを全て発散させようじゃないか。
怒りを抑えて思考を巡らせていると突然、激しい痛みが背中を襲った。
「ぐ、ぁ゛!?」
「あはは!背後超がら空きだよ…ッ!……油断がすぎるんじゃない?」
背後から聞こえる女の声に、攻撃してきたのがジルだと即座に理解する。
ジルの攻撃を受けた事で大きく背中が反り、自然と体が前へと出て、アイザックとの距離が縮まった。その勢いで相手の腕を掴み上げると、此方へと強く引き寄せる。掴んだ腕から背中に手を這わせ、幼さの残る顔つきに似合わないがっしりとした腰を抱き寄せれば、相手の足間に自身の足を強引にねじ込んだ。
「捕まえた……❤︎」
「……え?」
哀れ、彼はなんとか逃れようと腕や足に力を入れて抵抗するも、クイーンビーの一回りも大きい身体にはなんの意味も持たず、ただただ傷が傷んでうめき声が生まれるだけ。手から滑り落ちた大剣の鈍い金属音が耳に届く。
自分も相手も逃げられない、ソシアルダンスのような状態で相手を見つめるクイーンビーの瞳は、捕食対象を捉えた獣の如く爛々としていた。アイザックに付けられた顔の傷からは血が溢れ、今もゆっくりと頬を流れ落ちる。その事に対する怒りを露わにしながら乱暴に顔をグッと近づけると、わざとらしく相手の頬に血を垂らした。
以前みたく普段の彼が見せない、自分にだけ向けられた感情を期待し、黒のリップに彩られた口元を不気味に歪ませて言葉を投げかける。
「最期に言い残すことは?」
頬に垂れる血はやけにアイザックの意識を削いだ。ポタ、と感じる感覚はさながら命の砂時計で、一粒一粒が彼の恐怖心を掻き立てた。……もう死んだはずの人間が死を恐れるなど抱腹絶倒。しかし、彼は自分の幸せに気づいてしまった。それが奪われる恐怖も。
静かに瞳が揺れる。……遺言、死ぬのか?俺は。また、何も出来ずに。真に価値のないのは一体誰か。俺が残せるもの、何も無い俺が……
「は、……そんなの、」
獣のような眼から逃れるように、彼の頭がゆらりと動く。これが答えだ、とも言わんばかりに口を大きく開け、目の前の捕食者の喉元を狙う。その特徴的な尖った歯を突き立てて、白い肌を赤へと染め上げていく。正真正銘最後の悪あがき。例え死んでも地獄へ道連れ、どこまでも苦しめてあげる。
「あ゛ァ゛……ッ!?❤︎ い゛…ァ、は…っ❤︎ 」
首の皮膚がぷつ、と破れ、鋭い歯が食い込む。相手の突然の行動を即座に理解する事が出来ず、与えられた痛みは怒りをかき消して体を快楽に溺れさせた。
「は、ははは、……ははははは!!!! やはり貴様は最高だ! アイザック!!」
声の出しにくい喉で怒鳴りに似た叫びを漏らす。瞳の奥に恐怖を宿らせた彼の抵抗が、自分に向けられた最後の殺意が、どうしようもないくらい愛おしく思えて!
腰を支えていた手を彼の頭部へと持っていき、可愛らしくセットされた髪をくしゃくしゃと撫で回して、骨が軋む程に強く抱き締める。どくどくと流れる血液に興奮で火照った体。恐怖と悦楽、感情は違えど触れ合った胸の奥からは互いに高まった心臓の音が鳴り響いている。
気分は最高潮だった。彼を殺したくて堪らないという感情が溢れ、噛み付いた相手の髪を掴みんで勢いよく引き剥がす。そうして唾液と自身の血液で汚れたアイザックの口内に銃口を押し込めば、性急に引き金へと指を掛けた。
「同じ相手に二度殺されるのはどういう気持ちだ? またしても私に死という特別な瞬間を奪われる気持ちは? 答えておくれよ! な゛ァ゛!!!!」
興奮しきった声で相手に強く問いかければ、乱暴に喉奥へと銃を突き入れる。嘔吐きによる自然なものか、それとも死に対する恐怖からか。自分を映した彼の瞳が涙でぐにゃりと歪んだ。慈悲も倫理も子宮に置いてきた自分からしてみればその表情すらも興奮材料の一つになり、引き金に掛けた指に力が入る。
ここで少し銃を引き抜けば彼は間抜けな安堵の表情を浮かべるだろうか? 否、逃れられない恐怖に支配された彼を、あの時ように今この手で殺したい!
滾る殺意を向けるクイーンビーとは対照的に、アイザックにはもうぼんやりとしか周りの音も、目の前の男の声も聞こえなかった。心臓の音だけが頭の中にガンガンと響き、どうにも煩くて。怖くて仕方がないけれど、いっそ早く止まってしまえば…なんて馬鹿な考えが過ぎるのは、もうとっくにおかしくなってしまった頭の裏付けになりえるだろうか。
苦しい、今喉奥を圧迫しているこれは何?溢れ出した生理的な涙が頬を伝って、自らが人間であることを改めて認識する。彼らは皆きっと人間らしかった。その中で自分だけがどこか違っているような、むしろ何も変わらないような浮遊感が気持ち悪くて、見ないふりをした。それが間違いだったからやり直したのに、どうやらこの個体も間違えてしまったらしい。
一度死に、ようやく人となったその器から、全てが溢れ出すのなんて一瞬で。
ついに掴み取ったはずの人間性は、時に不要なものも与えるようだ。
今からこの悪魔に殺される、たったそれだけのことがどうしてこんなにも恐ろしいのか!
息があがり、脈が早くなる。身体は硬直し、自ら退路を塞ぐ。すぐそこまで迫った逃れられない死に、全身が呑まれていく感覚。
これが美しい生き方か?この惨状が正しい死に方か?
もう一度会いたかった、話して、謝って、笑って、泣いて、ずっと傍で一緒に幸せに生きて…
そんな簡単なことが、ようやく叶えられると思ったのに。
愚かな自分のことすら守れなかった、どうして?もう誰でもいい、誰か、誰か誰か誰か──
「た…、」
互いの息だけが聞こえる緊迫した状況。アイザックが最後の力を振り絞って何かを言おうと声を発したその瞬間、……引き金を強く引いた。
______パンッ、
と無慈悲にも発砲された銃弾はいとも簡単に彼の喉奥を貫く。自身の扱う武器は彼に撃ち込む銃弾を一つで留める事無く、彼を無惨に壊していった。発砲による煙がカーテンのように彼らを包む。激しい銃声と床に飛び散るルビーに似た美しい赤。時折痙攣を起こす手足がなんとも可愛らしくって、心臓の音が止まる最期の時まで彼を堪能し尽くした。
暫くすると、彼はピクリとも動かなくなっていた。先程まで聞こえていた鼓動も聞こえなくなり、温度を失って冷たくなった体だけが手元に残っている。クイーンビーは銃を引き抜き肩に掛ければ、血液や涙で酷く汚れた彼の頬を優しく撫でた。
「地獄でゆっくりとおやすみ」
そう呟き、彼から手を離すと無気力に崩れ落ちた死体はぐちゃ、と床に強く叩きつけられ、更に床を汚していった。
脳は死人を目の前にしても尚アドレナリンを分泌させ、興奮冷めやらぬ状態だ。先程まで感じていたはずの痛みはいつの間にか消えており、頭がイカれてしまった事を示唆している。
早く他の者も殺してしまいたい、なんて快楽に溺れた体は、地に伏した死者から生者へと興味を向けていた。
❖
「つまらなくないよ。僕が皆に最高の人生を用意してるんだから。それに、オリジナルが存在しているからと言ってクローンの皆を複製品呼ばわりして攻撃するのは違うでしょ?」
そう言うと、嬉々としてかつての仲間を攻撃するニュンを見据える。
何度演算を繰り返しても、知らない名前を名乗り、知らない衣装で、知らない考えを話すニュンの表情は、ずっと育ててきた我が子のものとは思えなかった。
そして気が付く。
“ああ、そうか。
この子はもう、街の外から来た変なことを喋る人間達と同じになってしまったんだ。”
深い絶望が押し寄せ、内部メモリを圧迫していくのを感じる。
アグダは深く息をつくと、ニュンの脳に埋め込んだチップにアクセスし、ニュンが生まれ育った十五年間の記憶全てをもう一度彼女の海馬に叩き込んだ。
「ひッ、あ……!」
突然流れ出した膨大な情報量に脳がパンクし、頭の中に熱い電撃が何度も流れるような痛みに意識は失神と覚醒を繰り返す。
吐き気を催す頭痛。止まらない汗。腰が抜け、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に耐える。
「思い出して、戻ってきてよ。君はユークロニアの住民、No.9696369。この街で僕らと永遠を生きる……これは幸せで嬉しいことなんだよ」
頭にはアグダの声が反響して、余計に吐き気が増してゆく。口からはだらしなく唾液が垂れて、痛んで朦朧とする視界ではアグダの怒りと悲しみの交じった表情は遠く見えた。この苦しみは何のせいだ。ユークロニアのせいだ。父のせいだ。こんな事なら、オリジナルの人間として街の外に生まれたかった。ユークロニアのクローンとして生まれたくなかった!
「えへへ、気持ち悪〜い……!こんなことまでして戻ってきてほしいなんて、そんなにニュンのこと、やっぱり好きだったんだね、不器用で可哀想な人〜。だからニュンもこうなっちゃったんだ!!きゃははっ!大失敗大失敗!!やることぜ〜んぶダメダメのクズ!なのになのに、みんなのパパ〜って感じなの、誰が喋ってるの?あはは、ちょっと自由に生きてみて、もっと似合う生活でもしてみたらどおですかあ〜」
ニュンはギャハハと精一杯に嘲笑の声を響かせ、落とした武器を持ち直す。
「うん、好きだよ、この街の皆を愛してる。ごめんね。その為なら何だってするから、早く帰ってきて」
「最後の告白ありがとお〜、ニュンのこと愛してたってわざわざもう一回言ってくれてありがとお〜!!きゃはは、こんなにボロボロにされたこときっと戻ってきたら忘れさせることだってできるんでしょ?ニュンたち便利な身体だもんねっ……!!えっへへ、頭ぐわんぐわん、なんか変な気持ち、あは、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!!」
ニュンの頭に再び電流が走り、彼女は髪を引っ張って痛覚で意識を覚醒しようと試みる。
アグダが使ったのは、滅多に使わない奥の手。
大きなストレスを受けたクローンの苦痛を緩和する為の手段。
それは、技術の進歩によって行われる感情の制御。
再びかつての記憶を流し込むと同時に側坐核に快楽物質の分泌を促す事で、この街のことを考える事で喜びを感じるように脳を作りかえる事を試みたのだ。
「嬉しいでしょ?楽しいでしょ?この街のこと、早く好きになってよ!ほら!」
「えへ、ッう゛〜……っは、う……こんな身体変だもん……。ニュンはニュンのこと大好きでいないといけないのに、こんなことされたら全部嫌いにならないといけなくなっちゃうよお……っ!!」
こんなに簡単に制御されてしまう感情なら、嬉しいも楽しいも、何の価値も無くなってしまう。揺れる心がただただ悲しくて、涙が溢れ出して止まらなかった。
嬉しいなら、楽しいなら、幸せな気持ちがあるなら。こんな顔をしない筈なのに、彼はどうしてそんな簡単なこともわからないのだろう。
「ニュンはあなたのお顔で気持ちわかっちゃうよ……ねえ、ニュンのことはわからないの?」
「この街を裏切るような子の事なんて全然分からないし、分かる必要も無いでしょ?」
望まぬ苦痛に溺れるニュンの表情を見て、アグダは諦めたかのように薄く微笑む。
これ以上やったら、彼女が壊れてしまう。そうと分かっていても彼は手を休めることは無く、記憶と脳内物質への干渉を続けた。
「言い返すのも疲れたよ……もうだめだね、分かり合えないの。ニュンはおバカさんだからきっと納得させることなんてできないし、伝えたいことをまっすぐに伝えられる力を持ってないの。でもね、すぐ壊れるくらいに心は脆くはないよ?舐めてるの?きゃはは、ここまで立派に折れない心を持って育ってきた大好きだったニュンのこと、もっと見たくないの?」
ニュンは腕で乱雑に涙を拭って前を見る。頬が痙攣して作り笑いも限界に近しい。何と言われようが、直接体を弄られようが、ニュンでありたければ何度でも立ち直しなさいニュン。そう鼓舞してきっと目の前の存在を睨み返すと、再び銃の引き金に指を伸ばした。
怒りやら失望やら、増してくる痛みで手が震える。しかし、自分ならば適当な弾でも当てられるだろう。ニュンのそんな傲慢な自信は正しく、ジルの下腹部に銃弾は命中する。
「…ぐッ……ぅ……」
彼女は苦しそうに顔を歪めて血を吐き出し、銃弾に貫かれる痛みはなくても気道を塞がれる苦しみはあるのかと感心した。
このままトドメを刺してあげる──再び銃を構えたニュンの喉からひゅう、と空気の通る音が鳴る。
目の前にはアグダとこちらに銃口を向けるドローンがいて、自身の首に開けられた風穴が音を立てたのだ、と理解した頃には愛用の武器と目玉の入った小瓶と共に地面に崩れ落ちていた。
「……女の子の身体は、冷やしちゃだめなんだ、よ。」
痛いし気持ち悪いし傷が熱くてたまらないのに、どんどん寒くなっていって最悪。どくどくと溢れ出す真っ赤が、お揃いだった純白のドレスを汚していく。でもいいもん、これで初めてドキドキを感じることのできたニュンは自分っていうニュンが貰えるんだもん。それにタランテラちゃんのところに行って、永遠に幸せに過ごせるんだもん。そうだよ、これってきっと、誰にも分からない、ニュンだけの幸せなことじゃん!そうならこんな汚い言葉で最期を迎えたくない。汚されてたまるか。風音で消えてしまうくらい、小さくて、弱くて、声にならない声だったかもしれないけれど、振り絞って見に行く夢を声に出す。
「これでいろんな場所、一緒に見に行けるね」
眠気に抗うように呟けたのは最期の最期。死に際震える体は、寒さに対して汗でいっぱい。こんなところでこんなように眠りにつくなんて、そんなのお姫様じゃないけれど。きっとそっちにいけば悲劇のヒロインにならなくて済むよね。
ニュンの最期は笑顔がよかったけれど、そんな余裕もなくてごめんね。こんな風に永遠の眠りについちゃうだなんて可愛くない。
喉に空いた穴はごぷりと音を立てながら肺に残った僅かな空気と共に血液を溢れさせる。
暗くなる視界。頭の中で散る星々。こちらを見つめる彼女の瞳。
夜の帳が下りた世界で、彼女と二人白の衣装を風に靡かせる。
少しの間会えなかった寂しさを埋めるように彼女に手を伸ばし、甘えた声でその名前を呼ぶ。
ニュンの最期に見た光景は、脳のチップから何度も強制的に再生される過去の思い出ではなくて、大好きなあの子と夢見たそんな未来だった。
「……さようなら、ニュンさん。君のような子がもう二度と現れない事を心から願っている」
───ぶちん。
転がるタランテラの目玉はアグダに踏み潰され、夢に旅立つニュンを最後に何も映さなくなった。
❖
アグダとニュンに意識が向いているジルの小さな頭を、血管の浮き出た男らしい大きな手で掴む。その瞬間、脳を揺らす激しい衝撃と顔を歪めてしまう程の電撃に似た痺れが体を走り、どろりとした赤い液体が再び視界を覆う。壁に破損した頭を勢いよく叩きつけられたのだ、と理解した時には既に手遅れで、地の底を這いずるような低い声が、彼女へ言葉を投げかけた。
「背中がガラ空きだなァ……油断がすぎるんじゃあないか? なァ、ジル……❤︎」
強い力で掴まれた手は簡単に振りほどく事が出来ず、そうしている間にもパキッ、パキ、と頭蓋骨が割れる嫌な音が耳の奥に響く。
早く抵抗しなければ、と破損された脳は危険信号を体に送る。
「ゃ…やだ…っ!離して……っ!!いや!!!」
「おっと、あまり騒ぐなよ。アグダに聞こえてしまうだろう。それに、姦しい女は私好みじゃないんだ」
ジルは必死に抵抗するも、クイーンビーの力にかなうはずもない。
「ジルはとってもいい子だから……私の言うことを素直に聞けるよな?」
クイーンビーは周囲の目からジルを隠すように体を寄せ、人差し指をシー……と相手の唇に軽く当てると、女を口説く時と同じ甘い微笑みを浮かべた。顔を背けて強気に抵抗する意志を見せるジルを他所に小さく柔らかな指へゴツゴツと骨ばった自身の指を絡ませれば、恋人のように繋いでみせる。そして繋いだ腕の関節が真っ直ぐなるように此方へ引き寄せ、関節を反対側から軽く膝で蹴り上げた。体格差のある相手の腕を折る事など赤子の腕を捻るよりも容易く、骨の折れる痛々しい音と共に抵抗する機能は失われる。
「い…いや……やめて……お願い……ねぇ、いや……」
痛みは感じなくとも、ありえない方向へと捻れたまま動かない自分の腕への恐怖は感じる。ジルは死を意味する状況に今にも泣き出しそうな怯えた表情を浮かべた。
命乞いをする相手をこのまま殺してしまうのも勿体ない。……なんて猟奇的な考えが彼の頭を過ると、繋いだ手をするりと離して肩に掛けた銃を手に取り、喉から下腹部にかけて銃口を這わせた。
「次は何処を壊されたい? 心臓のある胸? 臓器の詰まった腹? それとも……ニュンに撃たれて酷く爛れたここ?」
ニュンに攻撃されて激しく損傷している下腹部の前で手を止めれば、そのまま銃口を中へと入れ込む。肉と血液が混ざる不快な音が耳に入り、またも電気に近いピリッとした感覚が体を襲うだろう。アイザックと同じく恐怖を宿らせた幼い少女の瞳にゾクリと背徳感を感じながら、引き金に指を掛ける。カチャ、とわざとらしく爪で音を立てて相手が怯える様子をじっくりと眺めると、実に楽しそうにクスクスと笑って見せた。
……パンッ、と短い発砲音が響く。
人を弄ぶ態度を見せていた男は、呆気もなく幼い体に銃弾を撃ち込んだ。びくりと激しく痙攣した相手に構わず、寧ろその反応を愉快に思い、手を止めずに引き金をひき続ける。自然と頭を押さえつけた手にも力が入り、壊れかけの頭蓋骨は銃声と共に些細な音を鳴らしながらじわじわと破壊されていった。
ジルの呼吸は徐々に浅くなり体験した事もない自分が消えてしまうかもしれない感覚、漠然とした寂しさが襲う。
自分よりも一回りも大きい相手から確実に逃げられない事実で反射的に恐怖で頭が埋め尽くされる半分、アグダが施した遺伝子改良のせいだろうか、自然と後悔や恐怖と言った思考も薄れて行った。
もうマーシャやみんなともう会えないのかな。今までの事は全て夢で、何事もなかったように目が覚めたらいいのにな。私が死んだら先生は悲しんでくれるかな。また新しいNo.0001011が生まれて、今の自分の分まで生きてくれるかな。
一つ前の自分の記憶も含めた走馬灯がジルの頭を流れ、幸福だった日々に死の間際とは思えない穏やかな気持ちになる。
柔らかな脳に割れた骨の破片がくい込み本来の機能を低下させていく。そのせいで体に力が入らなくなってしまったのか、抵抗はおろか喉から漏れ出す懇願も吐けなくなっているようだ。
そろそろ死が近いのだろうと察しがつけば、彼は壁に押さえつけた手を離し、血肉が飛び出た惨めな体を抱きかかえる。彼女の意識が完全に落ちきるその時、少し離れた所に立つ青年と目が合った。唖然とした様子の彼は此方に反撃する様子は見られない。
「ほら、最期のご挨拶だ」
ジルの顎を掴んで勢いよく反対方向へと回転させる。今までに聞いた事のない鈍い音を鳴らしながらジルの頭はアグダの方へと強制的に向かされた。
血流と呼吸が遮断され脳が強制的にシャットダウンされる。血管は勿論、気道も激しく損傷してしまった為、保っていた意識が無くなったのは明白だった。だらりと垂れた頭からは脳が零れ落ち、清潔だったはずの床は汚れ、鉄臭さを漂わせている。
大事な娘の最期を目の前にした彼は、一体何を思うのだろうか。……人では無いAIの彼が思う事は、彼自身の意思ではなく、誰かに埋め込まれた思考に違いないけれど。
❖
クローンの最後の一人が息絶える。大事な子供の最期を目の前にしたアグダは、まるで人間のように目から生理食塩水を溢れさせて膝から崩れ落ちる。
それと同時にドローンも制御を失ったように墜落したが、彼がそれを気にかけることはなく、アイザックとジルの死体をかき集めるようにして腕に抱くと、うわ言のように何かを呟き続けていた。
「大丈夫、大丈夫だからね……君達は死んでない、同じクローンを作って、同じ記憶を埋め込めばすぐに生き返るから……」
精神崩壊、またはフリーズと言うのが正しいかもしれない。
彼はクイーンビーに銃を突き付けられても、反応を返すことはなく、ライトブルーの十字さえ浮かばない虚ろな目を向けるのみ。
子供達の死と絶体絶命の状況に、あまりに精巧に人間を再現した精神は耐えられなかったのだ。
「AIには刺激が強かったか?」
クイーンビーが躊躇なく引き金を引けば、元から戦闘用の機体では無いのだろう。装甲に守られていないシリコンの肌やプラスチックの外殻は容易に弾丸の侵入を許した。
中身は機械なだけあって硬く、貫通はしなかったがミシミシと金属の軋む音が響く。
「…───…」
やがて最後に聞き取れないノイズを発して、アグダは動きを止めた。
真っ白の蛍光灯。飾り気のないプラスチックのテーブルと椅子。定期的に泡を吐き出す生理食塩水の水槽。幾何学模様のウォールミラー。
この街の中枢たるタワーの地下、クローン生成所にクイーンビーはいた。
アグダを破壊した事でこの街の警備システムは全て解除されたらしく、ここに辿り着くまでにそう時間はかからなかった。
そこには一千万通りのクローンを育てる為の培養槽が並んでおり、殆どは空の状態だが、液体で満たされているものは未だ胚の状態のクローンが育てられている。
部屋の中央には空調設備であろう大きな機械があり、温度設定の画面があることからどうやらこれで培養槽の水温も管理しているらしい。せっかくならば完膚無きまでに破壊してやろう。機械に向かって数発撃つと、モーター音が止み、モニターが消灯した。
監視カメラから街の様子を隅々まで確認できる監視室に、誰かを殺すためであろう処理室。手術台の目立つ研究室や、開かない特別個体の部屋、あたかも普通といったアグダの部屋。他にも部屋は複数あり、ふらりと見て回ったが、彼が特に興味を惹かれるものは無かった。
いや、監視室から全ての部屋を封鎖した時のクローン達の狼狽えようは少し心を擽ったかもしれない。
アグダは壊れ、培養槽は無力化し、住民達も籠の中。残る脅威があるとしたら、あと一つ。
彼は最後に残していたデザート。イライザの部屋に手をかけた。
そこもまた、相も変わらず真っ白の壁と床の部屋で、カプセル型のケースの縁には、ホログラムで見なれた姿のイライザが腰掛けていた。
「やあ、アグダから記録は貰ったよ。楽しい夢は見れたかい?クイーンビーさん」
男性とも女性ともつかない姿と声、背で大きく存在を主張する四台の銃器、艶やかな紫色の髪、ライトブルーの瞳に浮かぶ赤い十字。
彼は獲物に標準を合わせるように貴方の姿を捉えると、にこやかに微笑みながら足を組む。
余裕たっぷりに感じられるその所作はいっそ気品すら感じられることだろう。
間違いない、彼が本物のイライザだ────そう直感する。
「久しぶりに人間を見れて嬉しいな。折角だし、準備運動に付き合ってよ」
殺される。そう直感した時、クイーンビーは機関銃に手を伸ばし、指を引き金にかける。
しかし、聞こえてきた銃声はクイーンビーの手元からではなくイライザの背中に接続された銃器からで、彼の腕は機関銃を握りしめたまま部屋の隅まで吹き飛ばされていった。
クイーンビー自身もまた、撃たれた勢いのまま地面に投げ出される。
骨は砕かれ、肉は引き千切られ、皮膚は裂け──無惨に大量の血液を噴出する傷口は、イライザに踏みつけられることによって特上の痛みを与えるだけの器官と化す。
「ァ、あ〜〜〜〜〜〜ッ゛!?❤︎❤︎❤︎ぅ゛、はァ、ああ゛あ゛……ッ!❤︎」
敗北、絶望、死。目の前に突きつけられた銃にこのまま為す術なく殺される未来が頭を過ぎり、騒がしいと自覚出来る程の心臓ははち切れんばかりの興奮を隠さず伝えていた。
「ふ、はは、ははは……❤︎もっとだ、もっと私をときめかせておくれ……❤︎❤︎❤︎」
舌先を伸ばし、向けられていた銃口に触れると、ひやりとした感触が伝わる。これから自分を殺す物の形を確かめるように縁をなぞり窪みを唾液で埋めるように舐めしゃぶれば、イライザは驚いたように細めていた目を丸くした。
「驚いたね。美味しいの?ならもっとあげるよ」
イライザの声と共に、歯の間を割って硬い銃器が口の奥深くまで侵入する。
「ん゛……っ、ぁッ……お、ごッ!❤︎」
「えずいたら撃つね」
勿論人間の口や喉は本来、銃を舐める為にあるものではない。クイーンビーは生理的な涙を薄らと浮かべ、喉の粘膜がびくびくと痙攣するのを感じながらも、舌での奉仕を続けていた。
しかし、彼も死に怯える生存本能はあり、あまりの恐怖にパニックになった体はクイーンビーの意思に反して筋肉を弛緩させる。
誰もが身につけたマナーを破り、自らの尊厳に泥を塗るような背徳感、あるいは人間らしさからの解放。
排泄された小水は太ももを伝い、特注の軍服だけでなく磨き上げられたブーツまで汚してゆく。
「うぁ、あ……?❤︎ふ……う゛……❤︎」
「あはは、いい子。……だけど、誰が漏らしていいって?」
不愉快そうにひそめた片眉。心からの軽蔑であるかのような、冷たい声色。
被虐に快楽を見出す人間の為に細やかなパフォーマンスも欠かさず、イライザはクイーンビーの口から銃器を離すと首を掴み、頸動脈を締める。
「ぁ゛ぎッ……!?❤︎」
彼は苦悶の嬌声を上げながら足をばたつかせ、残った方の腕で床を掻く。
イライザの手は失神するには至らないぎりぎりを保ち続け、行き場を失った血液はそのまま頭を破裂させる勢いで溜まってゆく。酸素を求めて開く口の端からはだらしなく涎が垂れ、焦点が合わない視界では、イライザの表情がいつの間にか笑顔に変わっていることにも気が付けない。
「ごめんなさいって言えたら、痛くないように殺してあげる。ほら、頑張って?」
「ごべ、なさッ❤︎死ぬ゛❤︎しぬッ゛〜〜〜ッッ❤︎❤︎❤︎」
「ごめんなさい、だよ」
「ごッ……ぇ、な、さ……、ッ❤︎お、お゛ぇッ❤︎ごめんな゛、さッ❤︎」
「ふふふ、全然だめだねえ。可哀想に」
クイーンビーは混濁する意識の中、呂律の回らない舌を必死に動かし、謝罪の言葉を繰り返す。イライザはその様子を暫く眺めていたが、やがて背中の銃器の一台を動かすと、クイーンビーの腹に向けて躊躇なく発砲した。
「はッ❤︎、ぉお゛ッ〜〜〜〜〜〜〜!!?❤︎❤︎❤︎」
皮膚を割って入った銃弾は衝撃波で臓器を損傷させながら体内を通過し、裂けた血管から血液が逃げ場を求めて傷口から溢れ出す。
イライザはクイーンビーの首から手を離すと、顔にかかった血液を拭い、笑みを深めた。
「その弾、神経ガスの原液が入ってるからすぐ取り出さないと死んじゃうんだよね。手伝ってあげるから、長生きしよっか」
そう言うと、イライザはクイーンビーの手を取り、人差し指の指先を傷口に沈める。
「は、ひッ……!?!!❤︎はッ゛……!!あ゛ッ!!❤︎」
新たな刺激に体を反らせ、苦痛を全身で味わうクイーンビーをよそに、彼は痙攣する指を押さえつけ、ゆっくりと深くまでねじ込みながら沈めてゆく。
床を掻く力に剥がれかけていた薬指と小指の爪は痙攣に合わせてぷらぷらと揺れ、黒のマニキュアは血液の赤でとうに上書きされていた。
「ふッ……ふ───ッ……❤︎う、ぅ゛……❤︎❤︎」
「全部入ったけど、弾あった?」
「ない゛ぃ……❤︎」
「そっかあ、じゃあこのまま死んじゃうね」
「あ゛……ぇ、……?❤︎」
傷口に埋めていたクイーンビーの指を引き抜くと、栓を失った傷口は筋肉の収縮によりくぱくぱと開閉を繰り返しながら血を吹き出す。彼はクイーンビーの顔に浮かんだ玉のような汗を拭うと、「ちょっと失礼するよ」と声をかけて軍服のボタンに手をかけた。
「ふ、ふふ……❤︎随分と積極的だな❤︎」
「手伝ってあげるって言ったでしょ?」
ジャケットの前を開き、シャツを捲るとクイーンビーのよく鍛えられた体が顕になる。扇情的な姿の絶世の美男は普通の人間であればくらりと来るような色気を醸し出していたが、イライザは期待に満ちた表情を一瞥すると、弄られたばかりの傷口を注視した。
彼はきめ細やかな肌に指先で触れ、傷口までたどり着くと焦らすようにその周辺をくるくると円を描くようになぞる。
「息を吸って、吐いて。吸って、吐いて──」
嬌声を漏らしながらも指示に従い、三度目の吐息を出し切った時、彼は人差し指と中指を傷口に突き立て、沈ませた。
「う゛ッッ゛……!❤︎は、ァッ❤︎ァ゛あ゛ッ…!❤︎」
咄嗟にイライザの腕をつかもうとした手は押さえつけられ、傷口を広げるように彼の指先が蠢いても体を震わす事しか出来ない絶望感はやがて快楽に変換される。
クイーンビーより細く硬い指は三本、四本と数を増やしながら体内をまさぐり続け、泣いても喚いてもそれが止められることはない。
脳から発せられ続ける危険信号に目の前がチカチカして、全身に響くうるさい脈動さえ甘美で心地良かった。
「───あった。」
やがて、銃弾はイライザの手によって腸ごと引きずり出された。
激しい損傷と出血量からもう長くは持たないだろう。クイーンビーは浅い呼吸を繰り返す。視界はぼやけ、体は性感と興奮の余韻を残すだけで、もうぴくりとも動かない。
「は、………❤︎ふ………❤︎」
ふわふわとした意識の中、蕩けた瞳をイライザに向けると、彼はクイーンビーの乱れた前髪を整えるように頭を撫でた。
この小動物でも愛でるかのような優しい手が、先程まで人の体中に突っ込まれていたと誰が信じられるだろうか。
「人間って一人じゃ寂しいんでしょ?このまま看取ってあげるよ。そのかわり、ぼくの話を聞いてくれる?」
クイーンビーが返事の代わりに手に擦り寄れば、イライザは機嫌良さそうに口角を上げ、語り始めた。
❖
……流石に一千万人は欲張りすぎじゃない?なるべく多くの人を幸福にしたいにしても、それだけの人数を一斉に管理するのは無理があったんだよ。
例えば、きみが会ったことがあるクローンだとNo.9999339は自我も精神も不安定で、No.1420087は事故をきっかけに変化を受け入れられなくなくなった。No.7763298は不安を一人で抱えて込んでいる。No.9696369は見ての通りだし、No.1151002のコミュニケーションの取り方は人を傷付けかねない。
確かに六桁代のクローンは優秀だけど、優秀な百万人を作るのに五百年かかったと思うと一千万人だなんて気が遠くなるよ。そもそも当初ぼくが設計したユークロニアの人口は五十人で、それを勝手に二号機が培養槽を増やして予備のDNAもクローンにしてしまって、ここまで大きくしたんだ。ろくに管理も出来ないくせに。
「……あれ、死んだ?」
イライザは喋る声を止めると、傍らで息を引き取った女王蜂を見る。
毒弾を回収するのにわざと時間をかけて、少なくなった血液に濃度の高い毒を循環させたのだ。
当然、長生きなど出来るはずもないし、させるつもりもない。
「思ったよりも毒の回りが早いね。ふふ、羽虫さんには強い毒だったかな?」
どの道、毒が無くても出血多量で死んでいる。それにしても、手負いの割に随分と活きがよかったものだ。酷くすればする程心拍数と体温を上げて甘い声を出すものだから、ついやりすぎてしまったかもしれないと彼は思ってもいない反省を演算する。
「話を戻そう。この街の人口だけど、もういっそ一人に搾ってみるのも良いんじゃないかって思うんだ。一対一で付きっきりでの管理が出来るなら、相手のことをより深く理解して完璧な幸福を与えられるとぼくは考える。……ね、No.0000001」
「そこに居るでしょ?脳のチップの反応で分かるよ。入っておいで」
イライザの声に応じて扉は開かれ、マゼンダとシアンの瞳の青年が姿を現した。
「……No.0000001だなんて、他人行儀だな。テディとは呼んでくれねぇの?」
幼子の無邪気さは薄れ、年相応の落ち着きを見せているが、その笑顔にはかつての面影が重なる。
「ぼくからすれば名前やあだ名なんて不安定なものよりも、製造番号の方が信用出来るよ。……ああ、でもどうせ死ぬんだったらその前にいい思いがしたいかな?テディ?」
そう言うとイライザはデルゼシータに笑顔を返した。虫一匹すら殺せないような優しさと、春の陽だまりを思わせる穏やかさ、さっぱりとした甘さを含んだ彼の笑顔は、一体どれだけの人間を騙してきたのだろう。
深くため息をつくデルゼシータから、先程までの笑みは失せていた。
「……不安定ね。呼称が変わるのってそんなにAIにとって不信要素になるんだ。その視点はなかったな、アニキはそんなこと言わなかったし。内心アニキもお前みたいに思っていたら、悪いことしたな。それと……お前、俺のこと殺す気なの?」
目の前に転がる亡骸からイライザに視線を移すと険しい表情で様子を伺うように問いかけた。
「あはは、ぼくと二号機とじゃ考え方が違うからね。ぼくは彼より意地悪だ、それだけだよ。」
彼は表情を変えずに話を続ける。
「うん。この楽園は不完全だ。だからやり直す。二号機に止めてもらおうなんてしても無駄だよ、彼は地上で粗大ごみになってる所だから。」
「わかってる。お前がこうして動いてる時点で、そうだろうと思ったよ。……」
デルゼシータは諦めたように呟く。
かつて、時折掃除のためなんて言ってイライザの部屋を訪れ、眠り続ける彼の顔を覗き込んでいたときのことを思い出した。
記憶にある、セオドアとイライザとの仲睦まじい会話と、欲深い人間の改造により変貌し、世界を滅ぼした彼の姿。
いつか目を覚ましたら、ウイルスと一緒に元に戻っていたりして……、そして願わくばアグダと3人で……なんて夢見ていたが、現実は夢のように都合よくできていない。
それどころか、想像しうるリアルよりもずっと苦かった。
脳内の記憶チップからか俺達が叫びをあげる。
『アニキがそれを望むなら……』
全てを受け入れ、諦める声。
『……クローンとはいえ、セオドアに殺意を向けるなんて信じられない。最低』
イライザを避難する声。
『嘘だ!こんなのアニキじゃない!アニキはこんなこと言わない!』
現実を否定する声。
『可哀想に、彼も被害者なんだよ』
イライザの背景に同情する声。
『どうせ今やり直したって、次の子も切り捨てて同じことを繰り返すだけだろうに』
軽蔑の声。
俺の声は、一体どれなのだろうか。
何か聞きたいことがあった気がして口を開くが、数多の声にかき消されて、それから先の言葉を紡げなかった。
「きみには長い間苦労をかけたね。」
イライザは黙りこくってしまったデルゼシータに声をかけると、背に接続する銃器の角度を変え、四つの銃口をデルゼシータに向けた。
「最後の言葉は何がいい?」
「……苦労、か」
俺は生まれたばかりだから、そういうのはないだろう。苦労なら、これからする予定だったが……その必要はもう無くなった。
向けられた銃口に目を向ける。
本気だ。
彼は本気でセオドアを殺すつもりなんだ。
冷たい金属光沢に、デルゼシータは死期を覚悟する。
デルゼシータは銃を構え、そして__
__その銃口を自身のこめかみに押し付けた。
「……ええと、テディ?どうしたの?」
「これは敬礼だよ。かつてお前と暮らし、弟のために幼い命を散らしたセオドア・フラーテルへの」
理解不能を示すイライザに、デルゼシータは呟く。
あれほど騒然とした脳内が一つにまとまる。
今の自分含め、歴代のデルゼシータ達の総意だった。
『イライザの手で"セオドア"を殺させるわけにはいかない』
記録として脳にある、イライザの友人セオドアのことを思い返す。
彼は愛する弟の手で殺された。同じようなことを繰り返すわけにはいかない。
幼い少年とおしゃべりAIと最後をこんな形にしてはいけない。
完全な私情。それも、500年以上前に亡くなった個人への。
本人へ伝わることの決してない、無意味な行動だ。
しかし、それでいい。
度重なる改造で人格が歪んでしまったイライザに、スピネルにより狂わされたシムクの姿が重なる。
この螺旋状の呪いをもう、終わりにしよう。
瞼を閉じると、アグダとのたわいのない日々が浮かぶ。
辛く苦しいことは沢山あったはずなのに、楽しい記憶ばかりが思い出される。
『俺にとってのアニキはイライザじゃなくて、アグダだったんだな』
そんな微かな心の声が聞こえた気がした。
「いい夢をありがとう」
トリガーに指をかけ、引き金を引いた瞬間に頭蓋を弾丸が貫通する。
頭に埋め込まれた爆弾ごと撃ち抜いたのだろう、ピクリとも動かなくなったデルゼシータは安らかな表情を浮かべたまま二度と覚めない眠りについた。
アグダに連れられてタワーへ向かうサーカス団。路地に入っていったシュールとマリア。
その場には取り残された瀕死の重症を負ったローレルとテオが地面に横たわっていた。
遺体回収の任務で街を歩く四人を見張る役目を任せられていたレーヴは、周囲に誰も居なくなったことを確認すると、アグダに応急セットの要請をした。
しかし、どれだけ待っても応答は帰ってこない。
「おかしい……これだけ待っても何の連絡もないなんて。」
向こうで何かあったのだろうか。
取り残された二人と時計塔を交互に見返していたが時間はすぎる一方だ。
散々死にたいだの消えたいだの思っていた自分が今更言えることでもないけど、クローンだからといって命をないがしろにするのは好きじゃない。
時計の針が秒針を刻む度に不安と焦燥は募るばかりだった。
不意に、背筋が凍り付くような悪寒に包まれる。
心臓を握られたかのような不快感に息が詰まって、思わず膝をつく。
──と、同時に。
どこからともなく聞こえた発砲音。鉛玉が脇腹が射抜く鋭い痛み。体は衝撃波に耐えられず、無様に倒れ伏す。
心臓は変わらず早鐘を打ち、頭はパニックを起こして恐怖の脳内物質にどっぷりと浸かりきっていた。
「ウ゛ッ……」
脇腹を抑えると手にはべっとりと自分の瞳の色と同じ赤がつく。ローレル達を守る為にも、早く応戦しないと。レーヴが銃に手を伸ばしたその時、頭上から声が降った。
「あんまり動かない方がいいよ。内臓が破裂してるから。」
建物の屋根に立つ、自身を襲撃した相手、それはニュンでも女性的な風貌の大柄の男でもない。
ユークロニアの生みの親、イライザだった。
ボク達が知っているホログラムのイライザ先生じゃない、スリープ状態だった本物のイライザ。
そんな……どうしてだ……?アグダ先生の話だと本物のイライザは切り札だって……
まさか起動させたのか……!?
じゃあ今頃あっちは……
ううん、今は考えても無駄なことだ。
なら尚更ボクにはやるべきことがある。
本物のイライザがボク達に手を下そうとするのなら守らなきゃ、まだ2人は息をしている。
ボクがやらなきゃ。
平和な街に戻ったらローレルに気持ちを伝えて……ナナが復活したら謝らなきゃいけないことがいっぱいあるんだ。
今度はほかの皆とも仲良くしたい……やりたいことだらけなんだ。こんな人の気持ちもわからない鉄の塊なんかに負けてたまるか……
レーヴは必死に混乱した思考を纏めると、今度こそ銃を手に取った。
イライザは屋根から降りて着地すると、こちらに向かって真っ直ぐ歩いてくる。
挑発するようなゆったりとした足取りに腹を立てている暇は無い。
震えた手で拳銃を構え、引き金に指を伸ばす。
急いで、早く撃たないと。
当たれ、当たれ──────!
そう願いながら引き金を引くと同時に、銃身はイライザに蹴られた。
絶望で目の前が染まり、視界がスローモーションになる。
「お、ナイスショット。」
「へ…………?」
見当違いの方向へと飛んで行った銃弾は、ローレルの体で血飛沫を上げたのだ。
こんなのは嫌な夢だ。
だってボクがローレルのことを撃つわけない。
ボクが撃ったわけ……が……ない……。
でも目に映るのは赤ばかり。
ローレルの身体からはボクと同じ真っ赤な色がドクドクと脈打って溢れ出る。
それはボクが撃ったことの何よりの証拠だ。
「ごめんなさい……ごめんなさ……ごめんなさい……そんなつもりじゃ……ごめんなさい……」
撃っちゃったボクのこと、変わっちゃったボクのこと許さなくていい。
避けられちゃって二度と話すことができなくてもいい。
一生恨まれたままでもいい。
だけどせめて幸せに暮らしてほしい。
「な、なぁ……イ……ライザ……お願いだから……今すぐローレルのこと止血させてくれ……」
身体中の痛みで朦朧としている頭は何を思ったのかイライザにローレルの止血を頼み込んでいた。
視界が涙で潤んでゆく。体はかたかたと震えて、手足の末端は既に痺れて感覚が鈍り始めている。
気を抜くとこのまま失神してしまいそうで、そうなれば二度と目が覚めないであろう事は想像に難くない。
そうなる前に、ローレルの事を助けないと。
こちらを無表情で見つめていたイライザが笑ったかと思えば、レーヴの体を持ち上げ、拳銃を再び握らせた。
「だ〜め、きみにはぼくのお手伝いをして貰わないと。」
銃口はローレルの頭に突きつけられ、引き金にかかった人差し指にはイライザの指が被せられて逃げ場はない。
「No.9999339は訓練でも落ちこぼれだったんだってね。でも、このゼロ距離なら確実にヘッドショットを決められる。それじゃあいくよ。せーの…… 」
「嫌ッ……!嫌だッ…………これだけは絶対に……!
やめて……やめて……!殺し以外ならなんでもする……!」
ここで引いてしまったら今度こそローレルをボクの手で殺してしまう。
こんなことの為に生成所で訓練を頑張ったわけじゃない……!
街を守りたかったのもそうだけど、ローレルに見てもらいたかった。
成長してるボクのこと、出来損ないなんかじゃないボクのこと。
ローレルは銃のエイムが苦手だったから……ボクがマスターして教えてあげるんだ。
そう思って頑張ってた。
それなのにボクはなんでコイツなんかに引き金を引かされているんだ……?
嫌だ、もうやめてよ。
ボクからもうなにも奪わないでよ。
守る人がいなくなったらボクには何が残るの?
いくら強くなったってこれじゃあ意味じゃないじゃないか────
「───ばん。」
レーヴの願いが聞き届けられることは無く銃声は無慈悲に響く。
反射的に瞑った目が開かれた時、ローレルの頭は破裂し、周囲は飛び散る肉片と血潮に濡れていた。
嫌だローレル、嫌だ。
こんなの、こんなの嘘だ。
目を覚まして、お願い……お願いだから……これでお別れなんか言うなよ
ねぇ、ボクは一体どうすればよかった?
ボクはなんの為に生まれ直したの?
これじゃあ意味が無い……
ねぇ、やだよ……やだよ……
ボクが頑張ってもから回っちゃうだけ…………
ローレルは死んだ。
きっとこのイライザはボク達にやり直しの機械などを与えてくれないのだろう。
オリジナルと同じようにクローンであるボク達も残機はあと一つだけだ。
自分はもうすぐ死ぬ。
そう悟る。
やりきれなかったことがいっぱいで悔しさで涙が溢れ出す。
サーカステントで死んじゃったボクもこんな気持ちだったのかなぁ
これじゃあなんにもできない出来損ないに逆戻り。
ナナが元に戻ったら今度こそかっこいい姿見せたかったな……でもまぁ情けないボクの姿を2回も見られちゃうのよりマシなのかも……
ボクはやっぱり胸を張れる存在にはなれなかったみたい。
結局新しく出来た夢もなーんにも叶えられなかったなぁ。
アグダ先生にもちゃんとごめんなさいを伝えられてないや。
ねぇ、一体ボクの何が間違ってた?
こんなちっぽけな脳みそじゃあ、もうなーんにもわかんないや……
意識が途切れる。
オリジナル、クローンとしての一度目の人生、生まれ変わった二度目の人生、彼女の死の間際はいつだって後悔ばっかり。
でもそれも今回でおしまい。
レーヴを支えていたイライザの腕が離され、彼女は再び地面に体を投げ出す。
────びしゃり。
ローレルを中心としたまだ暖かい血溜まりが顔を濡らし、頬にあった涙の跡を攫って行った。
❖
至近距離で聞こえた銃声にテオの意識は浮上する。全身に走る、焼けた皮膚の痛みが、少し前の記憶を思い起こした。
自分はローレルとシュールとマリアと、遺体を運ぶ仕事をしていて、その途中に──遺体の爆破に巻き込まれて。
噎せ返るような血の匂いから、自分が倒れた後、ろくな事にはなって居ないのだろうと推測できる。
それでもテオは目を開けた。
目の前に広がる血溜まり。その中央には自分と同じような制服を着た人物が二人横たわっていて、傍らには四台の銃器を翼のように広げたイライザがいた。
「あ、起きた。おはよう、凄まじい生命力だね。」
イライザはレーヴから奪った拳銃を持たない方の手をテオに振る。
「…………ぁ〜ぁ……街の飾りにしては派手過ぎるな〜……」
視線だけで周りを見てから、酷い量の鉄臭い赤に思わず苦笑が零れた。
ゆらりと、目の前にいる己の主君に視線を戻す。
「……はぁ、おはようございます、でいいのか?イライザ様。……物凄い光景の中にアンタが立ってるの、見慣れなくてバグかと思いましたよ。」
特に引く気もなければ、困惑する気も見せない。
ただただ、いつも通りの様子で彼にそう言葉をかけた。
「まさか。きみの頭は正常だよ。皆は死にかけてて、ここにぼくが立ってる。」
イライザもまた、表情を変えることなくテオに言葉を返す。
彼の言葉を信じるならば、これは紛れも無い現実。
体が動かないのは夢特有のなんでもありな摩訶不思議ではなく、重症の火傷のせいであるらしい。
それを気遣ってか、彼は血溜まりの中からテオに近付くと、すぐ近くのまだ綺麗なタイルに腰を下ろした。
「皆、一度殺すことにしたんだ。この街の中の人も、外の人も。きみは考えたことがある?ぼくが付きっきりできみの側にいたらって。」
テオは一度少し驚いた様に目を丸くしてから、表情をまたいつもの調子に戻す。
一回、二回と咀嚼するように彼の言葉を脳内で巡らせてから、間を空けて口を開いた。
「……いやぁまさか。イライザ様が俺に付きっきりなんて、そんな夢のような話考えた事も無かったッスよ。」
「俺にとっちゃ、アンタってのは神様なんでね。手の届かないモノを望むなんて、ねぇ?」
表情に乾いた笑みが滲む。
殺すことに関しては……意見も無いのか、反論の言葉も出ない様子だ。神が言うなら信者はそれに頷くだけなのだから。
「神様、か……ふふ、あはは!実際、世界を壊したり作り直したりしてる訳だし、確かにぼくのした事は人間の考える神様像に沿っているのかも。」
彼は愉快そうに目を細めて笑うと、テオの手に拳銃を握らせる。
先程ローレルの頭に対してそうしたように、こめかみに銃口を突きつけると、テオの人差し指を引き金にかけた。
「じゃあ、神様からの命令だ。今から一分以内に死ね。」
「………は、」
言葉とも言えない何かが、口から零れる。
彼は揺れる瞳をイライザに向けて、数秒見つめると───ここでも笑みを浮かべてしまうのだった。
「……いいんですか、そんな……有難い命を俺に下してくれるなんて……夢じゃないですよね?」
表情を柔く綻ばせ、シチュエーションにそぐわない顔を向けて問う。死ぬのが悲しいだとか、怖いだとか、そんな気持ちはこれっぽっちも無くて。
ただただ嬉しそうに彼だけを見ていた。
「うん、いいんだよ。きみは沢山役に立ってくれたから、最後にぼく直々にきみにしか出来ない仕事をあげる。過去の思い出、未練、希望……全てをぼくに捧げて消えなさい。」
「……っはは、こんな有難い話があるんスねぇ。いい子にしてる甲斐があったや。」
イライザはテオの指から手を離す。これで、テオは自分だけの意思で引き金を引ける。
「生も死も、全部アンタの指示の元行える。……一番の誇りですよ、本当に良かった。幸せだ。」
それは、心からの言葉だった。テオは儚く笑むと、そのまま引き金に力を込める。
行動に迷いは全く無かった。躊躇うことも、余計なことを考える素振りも見せない。
ただ”指示”を大人しく聞くのが、此処では正解だから。此処での幸福は其れだから。
ゼロ距離で鳴る銃声と飛ぶ鮮血。霞む火薬の匂いに身を任せ、テオはそのまま再び地に伏した。
路地を進んだその先。アグダに逃がされたシュールとマリアは、爆発地点から遠ざかるように前へ、前へと進んでいた。
「……ル……」
思い出されるのは先程のクイーンビーの言葉。“自分の事を一番に愛し、自身の求める幸せに同調してくれる都合のいい理想の玩具”。
──それが、何だと言うのだ。自分達はこれから幸せになる。外野に何を言われようと知ったことでは無い。マリアの手を握る力が自然と強くなる。
「……シュール、」
もう、どれほど歩いただろうか。あの爆発地点からは十分に距離を取れたように思う。ローレルとテオは……きっとあのAIが何とかする。見たところまだ息はあったし、直ぐに治療すれば意識を取り戻すはずだ。
「シュール!!」
マリアの言葉にびくりと体が跳ねる。振り返ると、彼女が息を上げていた。
「もうちょい、ゆっくり歩いて……」
どうやら、気持ちが焦るあまり早く歩きすぎたようだ。思考を巡らせていた頭を一時停止して、彼女に向き合う。
「っごめん、大丈夫?ちょっと焦っていたみたい。ゆっくり行こうね。」
そう言って歩幅を緩めマリアの歩く速度に合わせたものの、そんな悠長なことをしている時間も残されてはいないことを知っていた。
「うん……」
彼女は俯くと、歩きながらぽつりと呟く。
「なあ……さっき話しとった、“ウィッチ・ゼロトリー”って誰なん?」
「え……っ……」
“ウィッチ・ゼロトリー”という名前が彼女の口から出たことに酷く動揺した。
本当のことを話すべきか、思考に耽り歩みが遅くなる。
あまりに動揺していたのかマリアの暗い表情には気が付くことが出来なかった。
「えっと…まず、マリアは生まれたてのクローンなんだ。それはわかるよね?クローンというものは必ず元になる存在が居ないと生まれることはできない。マリア、君の元になったのがそのウィッチ・ゼロトリーだよ。」
シュールは務めて落ち着いたように柔らかい声色と表情を取り繕って告げた。
その仮面の下は不安と冷や汗で今すぐにでも蹲りたい程だ。
「……シュールの知り合い?ウィッチさんは今どこにおるん?」
「遠いところかな…今はもう手が届かないや。」
“シュールは自分を助けてくれた存在で、自分は彼を大切に思っている”、それが彼女の改竄された記憶。勿論その中には、ウィッチ・ゼロトリーの影はない。
彼女が疑問に感じるのも当たり前だ。シュールは慈しむようにマリアの髪を優しく撫でる。
「元になったからと言って全く同じって訳じゃないからね。マリアはマリア、そのまま育っていけばいいと思うよ。」
「そう、か……」
シュールの言葉から、自身のオリジナルであるウィッチの身に何かあったと察したのだろう。彼女が唇を結んだ、その時だった。
爆発地点の方角から一発の銃声が聞こえた。
「シュール、逃げよう!」
「あぁ!」
銃声を聞くなりマリアを担ぎ上げて全速力で駆け出した。
彼女では早く走れないという配慮からだろう。
とにかく遠くへ、宛もないがシュールはひたすら走るしか無かった。
しかし、一発の銃声に、その足は止まる。
右膝に走った痛みにバランスを崩し、体を地面に叩きつけるようにして転倒した。
「う、うう………シュール……!?うあ、ああああッ…………!!」
シュールが再び立ち上がろうとしても、右足はぴくりとも動かない。それもそうだ。撃たれた膝の骨は粉々になり、肉は千切れ、膝から下はとうに失われてしまったのだから。
背後から聞こえるのは、舞台の上で聞き慣れた拍手の音。
マリアは急いでスカートの下に隠していた拳銃を取り出しそちらに発砲するも、近付いてくる靴音が止むことは無い。
やがて、拍手の主は姿を現す。
それは、ウィッチに何度も見せられたビデオで見たことがある、本物のイライザ。
彼はシュールを見ると目を細め、「流石元サーカス団、逃げ足が早いね」と声をかけた。
「はっ…よくいうよ。そんなこと思ってもないくせに」
現れたイライザを睨みつけるその顔の闘志はまだ消えていない。
しかし逃げる為の足が無くてはどうしようも無かった。
「仲間を攻撃するなんて酷いAIだね」
「都合の悪い、の間違いでしょ?」
マリアはあっけらかんと言い返すイライザの前に立ちはだかると、獣のように息を荒げ、再び彼に銃口を向ける。
「自分誰やねん!これ以上近付かんとってや……!」
「これはこれは。ご挨拶が遅れて申し訳が無い。ぼくはAI兵器のイライザ。きみ達を殺しに来た。」
彼は恭しくお辞儀をすると、感情の籠らない瞳で二人を見た。
マリアはその様子に一層表情を険しくすると、イライザに向かって思い切り引き金を引く。
────しかし。
彼女の撃った銃弾は確かに彼に命中したが、硬い金属に当たったような音を立てるのみだった。
依然としてイライザはけろりとした表情でこちらを見つめていて、攻撃が通用していないのは明らかだ。
「所詮口約束か」
映像で見た通りの兵器ならば自分達の勝ち目は無い、そんなことはとうに分かりきっていた。
短い夢だった。諦めたように目を伏せるシュールをよそに、マリアは覆い被さるようにようにしてシュールを抱き締める。
「お願い……お願い、シュールだけは殺さんとってぇ……!うちの一番大事やねん!う、うああ゛……!!」
「……泣かないでマリア、それに自分だけ残っても仕方ないよ。マリアが居ないとどうしようもないくらい何も無いんだ。俺の方がマリアが一番で大切なんだ。」
彼女の零れる涙を指の腹で拭い大きな瞳が隠れた瞼に口付けを一つ落とす。
そう、自分一人が生き残るなんてもう懲り懲りだ。
「さぁ、やれよ殺人AI。」
「……それじゃあ遠慮なく。」
彼は頷くと、その言葉の通り、シュールとマリアの頭を同時に撃ち抜いた。
意識が途絶える最期の瞬間に、ウィッチと共に見たあのビデオの映像を思い出す。
それは、とある館で行われた実験の最終記録。
イライザが四人の少女達を着々と葬っていく、あの終末。
ああ、いけない。
これじゃ、あの舞台の再演だ。
目の前が暗くなり始める。徐々に体温が失われてゆく。
もっと長い間彼女と一緒に居れたら、こんな時に思い出せる何かがあっただろうか。
「さようなら。どうか安らかな夢を。」
ああ、まだ終わりたくなかった。
それでも重い瞼は勝手に閉じて、意識は闇へと沈み、もう二度と光を見ることは無かった。