糊付けのされたシャツ、汚れや毛玉の目立たないニット。ふっくらとした美しい頬にふわふわのくせ毛。スラム街に迷い込んだ少年、シュールは大きな瞳を見開き、つい先程まで自分の持ち物全てを奪い取ろうとしていた強盗が鉛玉に倒れる様子を見ていた。



「皆の入団エピソード?」

魔女帽のサーカス団団長、ウィッチ・ゼロトリーの声に、いつもにも増して煌びやかな装飾で飾られたサーカステント内は静まり返る。

本日はサーカス団立ち上げ五周年を記念するパーティー。パーティー用のドレスやタキシード風の衣装に身を包んだ団員達は、程よく羽目を外しながら楽しい時間を過ごす。その筈だった。

ビュッフェスタイルの豪勢なディナーとデザートに伸ばされる手は止まり、先程まで談笑をしていた筈の団員達は水を打ったようにしんとして、スピーカーから流れるジャズが妙に目立って聞こえる。

もしかして、何かまずい事を聞いてしまったのだろうか。つい先程「皆の入団エピソードを聞いてみたい」と言ったデリックは別の話題を切り出そうと頭をフル回転させていたが、彼が口を開く前に団員達の声が上がった。

「確かに話してもいいかもね!だって最近来た人達は知らないでしょ〜?」

「はいは〜い!お兄さんの武勇伝でしょ?まかせて!」

「ボクもボクも!話したい!だってとってもうれしい、だったから!」

「可愛らしいオネダリには応えてやらねばならんな」

レプスにP.N.G、タントやクイーンビー。続々と乗り気な返事が聞こえ、デリックはほっと胸を撫で下ろしながら、広がっていく高揚感に身を任せて頬を緩ませた。今を輝くブラックウィドウの団員達がステージに上がるまでの道のりだなんて、彼らのファンならば皆が一度は想像したものだろう。

それをこうして直々に話を聞ける機会に恵まれるだなんて、これ以上ない幸せだ。

「昔の事やしよう覚えてへんなあ」

「なら、ウチに思い出して貰う為にもお話しなくてはなりませんね」

「加入順だと俺から?」

「シュルさん、お願いしても宜しいかしら……」

飲みかけのオレンジジュース。ブラックベリーのムースケーキ。山盛りの魚のフライ。シュルの返事を合図に各々コップと皿を持ち寄り、向かい合うように椅子を並べる。

「それじゃあ改めて……団員の皆がサーカス団に加入するまでの話を聞かせてくれるかな?」

デリックの言葉に団員達が頷く。

今日のパーティーは長くなりそうだ。



くすんだ金髪を二つに括った少女は硝煙を出す拳銃をポケットにしまい、倒れたまま動かない強盗犯に見向きもせずにシュールに近付く。

「なあ」

シュールはぼんやりとコンクリートに広がる血液を見つめていたが、彼女の呼び掛けに俯いていた顔を上げた。

自然と、炯々としたマリアライトと目が合う。

逃げ出すにも足はまるで蜘蛛の糸にでも捕らわれたように動かない。

緊張でからからに乾いた口を開き、「……なに?」と問いかけると、彼女は口角を上げてニヒルに微笑む。

「自分、迷子か?」


その格好や口ぶりから、きっとここには詳しいのだろう。シュールの予想を裏切らず、少女はスラム街の路地をすいすいと進み、あっという間に廃墟の一室に辿り着いた。

一人用のベッド、食べかけのお菓子の置かれたテーブル、壁から壁へとかけられたつっかえ棒にぶら下がるハンガー。どうやらそこは生活をする為の拠点であるらしい。

少女は部屋にたどり着くや否や豪快にソファに腰掛けたのに対し、シュールは居場所を探すように辺りを見回していた。

「向かいのソファ座ってええで。……えーと、」

「シュールだよ」

「シュル?よろしくな。」

まあそれでもいいか。わざわざ訂正してややこしい事になっても嫌だ。シュールは頷くと、少女の向かいのソファへと移動した。

「なんとなく置いとったソファが役に立つ日が来るとはな。あ、座る前に埃払った方がええかも」

もう遅い。

シュールがソファへ腰を下ろしたのと同時に埃が舞いあがり、鼻と目に入り込む。あと三秒早くその忠告があったならば、こんな事にはならなかったであろう。生理的な涙で潤んだ目を開けると、だから言ったのに、とでも言いたげな少女がこちらを見ていた。……実害が出ている以上、抗議したって許される筈。

「ごほ、ケホッ……もう少し、早く言って……」

まあその抗議に対する彼女の返答は「おお」の二文字で終わってしまうのだが。まともに取り合われていないようで腹立たしい気持ちと、諦めの気持ちがため息として出ていった。

「ウチはマリア、ここには詳しいつもりやで。シュルがはぐれたんって親御さんやんな?どんな感じではぐれたん?」

「ええと……」


それからマリアには様々なことを話した。両親の事。こうしてはぐれるまでの経緯。少しの弱音。彼女は先程の様子とは打って変わって真剣な様子で聞いてくれているように見えた。

彼女曰く、はぐれた地点からここの拠点までそう遠くないらしい。俺と彼女の基準での“遠くない”にどれだけ差があるかは分からないが、明日はそこに戻ってみようと思う。きっと両親も俺の事を探している筈だ。入れ違いにならないように、置き手紙を置いておくのもいい。

今日は眠って明日に備えるとの事で、マリアは掃除のしてある方のソファと予備の毛布を貸してくれた。寝心地は良くないが、文句を言ってもどうにもならない。それに、寝る前というのは些細な事が気になって落ち着かないものだ。ソファの硬さ。薄い毛布。雨と埃の匂いの混じった空気。父と母の顔。些細な思い出の一つ一つ。

「……う、うう……」

涙が瞳を覆い、雫となって頬を伝った。

今はただの迷子で、明日には家に帰れる。そう信じたいのに、どうしてだろう。昨日までの日常にもう手が届かない気がしてならないのだ。

今は物事を良い方に考えないと。そう思えば思う程、嫌な想像は膨らみ、不安で押し潰されそうになる。神に祈れば家に帰れるなら、何度だって祈ろう。何かを差し出せば両親が迎えに来てくれるならば、誕生日に貰ったぬいぐるみでも、一番気に入っている服でも差し出そう。しかし、何かを差し出せば願いが叶うだなんて、そんな魔法のような事は起こらない。

毛布に潜り、膝を抱えて嗚咽を漏らしていると、毛布越しに小さな手がシュールの頭を撫でた。

「……マリア?」

彼女は返事の代わりに、聞き慣れないメロディーを口遊む。ゆったりとしたテンポと美しいメロディーラインに、少しずつ心が落ち着くのを感じる。起こしてしまってごめんなさいだとか今は口にする余裕は無くて、乱れた呼吸を整えるのに精一杯だった。


いつまでそうしていただろうか。頭を撫でる優しい手とバラードを歌う声はそのままシュールから離れる事はなく、シュールもまた、それを拒否する事はなかった。

あれだけ止まらなかった涙は枯れ始め、代わりに疲れと眠気が思考力を奪ってゆく。

このまま起きていても寝不足で集中力を欠けば明日の捜索でまともな成果を得られない可能性がある。

本能的な眠気に身を任せるように瞼を閉じれば、心地よい眠気がシュールの意識を攫って行った。


あれから二週間。街の中やその周辺まで捜索して回ったが、シュールの両親に関する手がかりは見つからず、置き手紙にも反応は無い。朝から夕方まで歩き回って、疲れた足を癒す為に拠点に戻る日々が続いた。

「シュル、今夜はシチューや。食いたいんやったら手伝え!」

「う、うんっ!」

マリアは帰るや否や、泥棒対策にチェストで隠していた床下収納からじゃがいもや人参、玉葱を取り出し、キッチンへと向かう。シュールもまた、荷物で膨らんだリュックサックから今日手に入れたばかりのベーコンと牛乳を持って彼女の後を追った。

というのも、今日は商人からみかじめ料として食料を分けてもらう日であったらしい。

みかじめ料という概念を初めて知ったシュールは、スラムでの生活は俺が培ってきた常識を嘲笑うかのような出来事ばかりだ、と痛み始めている野菜をタダで得ようと口舌を垂れるマリアを見ていた。

そうして朝に渡された空の容器が幾つか入っただけの大きなリュックサックは夜には容量を超過して今にもはち切れそうな球状になり、シュールは後ろに重心を持って行かれて転げそうになるのを堪えながら歩くことになった。

もしシュールが人生の中で一番重たいものを持った日を質問されたならば、きっと今日の事を話すのだろう。


ステンレスのスプーンで掬ったもったりとしたクリーム色のスープに小さく息を吹き掛ければ、立ち上る湯気は逃げるように形を変えて、そのまま空気に溶け込んで消えていく。

シュールはそれを何度か繰り返し、火傷しないように温度を下げてからようやくスプーンを口に運ぶ。それだけでない。口に入れた後も行儀よくしっかり噛んで飲み下すものだから、いつもマリアよりも食事にかかる時間が長いのだ。

先に夕食を食べ終わったマリアはというと、後片付けはシュールに任せて雑誌を読んだり銃の手入れをしたりと気ままに時間を過ごし、飽きたらシャワーを浴びて眠る準備をする。

今日も例外なく、廃墟の一室には二人の日常が広がっていた。


「そろそろ寝るか。シュル、来い」

夜も更け、マリアはベッドに詰めて入ると空いた隣のスペースを叩いてシュールを呼ぶ。

一緒のベッドで眠るのは少し照れくさいような気もするが、断ればマリアの機嫌が悪くなる事も、それが家族と離れた不安で枕を濡らすシュールへの優しさである事も知っていた。

「今日のシチュー、美味しかったなあ」

「な!まだ余っとるから明日も食べれんで。……というか、だいぶ余っとるから暫くはシチュー三昧や。ああ、飽きひんように味替えレシピもあるから安心しい」

「へえ、例えば?」

「マカロニとチーズを足して焼いてグラタンにしたり、パスタと卵を足してカルボナーラにしたりとかやなあ」

「美味しそう!楽しみだなあ」

「イヒヒッ!やっぱ料理は食べてくれる人がおると張り合いあってええわ」

子供と言えど二人も居ればベッドは狭い。

しかしそれが不愉快という訳ではなく、こうしてぎゅうぎゅう詰めになって他愛も無い話をする穏やかな時間がシュールは好きだった。

それはまるで、元いた家に帰るという希望を失いつつある事を誤魔化すように。日が経つにつれ、焦燥感と絶望を麻痺させる為に過ごす時間は長くなっていった。

「さ、そろそろ電気消すで」

「もう?まだ少し話してようよ」

「眠いねん」

マリアは切り捨てるようにそう言うと、電気を消して布団に潜り込んでしまう。

「そっか……おやすみ」

「おやすみ」

喋る相手が居なければ起きている理由もない。無理矢理瞼を閉じ、眠りに入るのを待った。


目を覚ませば、僅かにジャズのような音楽が聞こえてくる。差し込む光は朝の陽光ではない。

「……マリア?」

寝惚け眼でマリアの方を見ると、彼女の薄ぼんやりとした瞳はビデオプレーヤーの画面に向けられている。髪の隙間から見える耳はイヤホンですっかり塞がっており、ジャズはその隙間から聞こえて来ているらしい。

「そんなに大きな音で聞いていると耳が悪くなっちゃうよ」

シュールがマリアの片耳のイヤホンを外して話し掛ければ、気が付いた彼女はシュールの方を見た。

「おお、起こしたか?」

その表情は、どこか熱に浮かされたように恍惚としており、不気味でありながら不思議と魅力的な微笑みだった。

シュールはこの顔を見た事がある。それは、マリアと出会った時。拳銃を手に強盗を撃つその表情は嬉々としていて、恐怖を覚えたのだ。

その表情を今、どうして。

背筋を冷たい汗が伝う。

「シュールも見るか?」

「な、にを……」

「ウチの宝物」

体はやはり、まるで蜘蛛の糸にでも捕らわれたように動かなかった。



「その後は……皆も見たでしょ?殺人サーカスのビデオ。それを見せられて、一緒にサーカスをやらないかって誘われて……って感じだね」

元いた家に帰れず、かといえ、このスラム街で生きていく術もない人間が辿る末路なんて想像に容易い。マリアが日常的に繰り返している略奪も、逆に略奪に合わない為の対策も、俺には無いものだった。

だから、俺は彼女に見捨てられたくなくて、必死に話を合わせて、俺でも出来る演目を必死に練習した。そして、ステージ衣装に着替えたマリアはウィッチ・ぜロトリーと名乗り始めて、俺にはシュルのままでいいのかって聞いた。


「……シュルでいいよ。」

ウィッチの望む通りになる事しか、もう俺には残ってないから。