ふらり。閉じ込められていた屋根裏部屋から這い出た一匹の化け物は、視線に脅えて瞼を閉ざし、宛もなく彷徨う。
彼女はまるで死に場所を探すように、暗く、人気のない路地の闇へと消えていった。
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「おにい?これじゃクイーンビーのお話聞こえないよ?」
「聞こえないようにしてるの!ホラッあの、タントにはまだ早いかなって!」
タランテラはくすりと笑って長い腕を伸ばしたかと思えば、タントの頭を優しく撫でた。
「タントさんが大人になったらもう一度話して頂きましょうね」
「うんっ!ボク、タランテラと同じくらい……ううん、もっと大きくなる〜!」
「あらあら、それは楽しみですわ」
小さな体で背伸びをしてみせる微笑ましさに皆が笑顔になる中、当のタランテラだけはその笑顔に陰りが見えた。
「……心配せずとも、此処がある限り貴様のような苦労を彼奴がする事はないだろう」
「クイーンビー……ありがとう。駄目ね、私……悲しいことばかり考えてしまうの」
「物事を深く考えられるのは君の長所だよ。失敗やトラブルを回避する為に大切な事だ!落ち込みやすいのが玉に瑕だけど……」
「その時はウチらがおる!落ち込んでも、失敗してもウチらがどうにかしたる。このBlack widowには同じ志の仲間を見捨てるような奴はおらん!」
「デリックさん、ウチ様……」
瞼を開ければ、頼もしい八人の仲間がそこにはいた。誰もが真っ直ぐな目で、タランテラを見つめている。彼らの眼差しにはタランテラの恐れるものは何一つない。
「……ありがとうございます。昔の話をするという事で、少し過敏になっていたようですわ。でも、もう大丈夫。話してもいいかしら?私の、ここに来るまでの話……」
彼女の声に皆が頷いた。
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化け物と言っても、彼女はれっきとした人間である。ただ、父の太陽のような金髪とも、母の輝かしい白髪とも似つかない黒い髪。複眼じみた模様の入った不気味な瞳、年齢や性別にそぐわない長身を持ち、生まれて落ちたその瞬間から迫害を受けて育ってきただけの人間だ。
忌避され続けた二十年もの年月は彼女の精神を蝕み、やがて人の目への恐怖から、人でない物への執着の心が芽生えさせた。彼女は母に似た白い物が好きで、こうして家を出るまでは様々な友達を集めてきた。そんなコレクション達も、母に見つかったことで衝動的に家を出てしまい、置いてきてしまったのだが。
居場所はなくても家があり、時折母と会うことも出来る。会話は出来なくても友がいて、その白を愛でることが出来る。
その全てを失い、正真正銘の孤独の中にいる。そんな彼女の隣を白い物がすり抜けていくものだから、彼女はそれを追うようにして路地に入ったのだ。
路地の奥には、彼女が追ってきた白である猫がいて、その先のダンボール箱からはミイミイと子猫の鳴き声がしていた。
生きたその声は、愚かな自分を蔑み、非難する声にも聞こえて彼女は立ち竦む。
ここは自分達の居場所だ。どこかに行け、化け物。
そう聞こえた気がして自然と足が後退り、逃げ出してしまいたくなる。そんな時だった。
「お。先客か?」
振り返り、目線を下げるとそこにはくすんだ金髪の少女が自分を見上げている。手には猫じゃらしとパンを持っていて、まるでこの猫とじゃれ合いに来たようだった。
咄嗟のことに声が出ず、そのまま少女に道を開けると、少女はつかつかと猫の方に歩み寄る。
しかし、子猫は何かを察知したようにダンボール箱の中から飛び出て、親猫もまた、子猫が退散したのを確認するとどこかへと逃げて行く。少女はがっくりと肩を落とすと、再び彼女の方を見た。
「やっぱ無理かあ……ウチな、動物に懐かれへんねん」
「……そう、なのですか……」
「まあ、そんな事はええよな」
彼女は思わず目を逸らしてから、これは失礼にあたるのではないかと考えつく。恐る恐る、再び向けた瞳には、好奇に満ちた少女の表情が映った。
「なあ、お嬢さん!サーカスに興味無いか?」
「サーカス……?」
「ウチらサーカスやっとってなあ、ショーの最後に残った人がおったら勧誘するって決めてんねん。もし良かったら明日来てや、自分みたいな人やったら大歓迎やで」
そう言うと、少女は彼女に小さな紙切れを握らせる。それは、Black widowと書かれたサーカスのチケットだった。しかし、彼女が気に留めたのはそこではない。満足そうにその場を去ろうとする少女に、精一杯の声で問いかける。
「お待ちください!私みたいな人ってどういう……」
少女は振り返り、ニヒルに微笑むと、自分の方に何かを投げる。慌ててそれをキャッチして見れば、投げられたものは先程猫にやろうとしていたパンで、次に彼女が顔を上げた時には少女はもう居なかった。
やはりと言うべきだろうか。翌日、行く宛ての無い彼女はサーカステントの中にいた。上映前と言えども少し暗い室内はサーカスを楽しみにする人々で溢れかえっていて、彼女はここでも邪魔者として一番奥の席へと追いやられていた。
隣に座る人間から開けられた人一人分の距離に胸がチクリと痛む。
もうここからも逃げ出してしまおうか。そう思った時だった。
「ご集まりの皆様、ようこそお越しくださいました!ただいまより、開演のお時間となります。これよりお立ちになっての移動は御遠慮ください」
まるで見計らったかのような、聞き覚えのある少女の声。思わず動揺してしまった心を落ち着かせるようにほ、と息をついていると、彼女の開演の挨拶が耳に入る。
「遠路はるばる参りました、我らが至高のサーカス団。Black widowが披露致します巧技の数々は、皆様の一生の思い出になる事間違いなし。
おおっと、申し遅れました!司会を努めさせて頂きますは、私ウィッチ・ゼロトリー。以後お見知り置きを」
その言葉に、どくんと心臓が脈打つ。
サーカスとは、どのようなものなのだろうか。あの少女の言葉はどういった意味であるのか。それを確かめる為に、席を立とうと浮かせた腰を下ろした。
まさしく、夢のような時間だった。軽快な音楽と共にめまぐるしく変わる景色はどれも素晴らしいものばかりで、Black widowの最終演目、殺戮のパフォーマンスにさえ彼女は最後まで手拍子を休めることは無かった。
公演が終わっても、この安らぐような心地の良い余韻に浸っていたくて席を立たずにいると、彼女に気がついた団員に声をかけられる。
「おや、お姉さん。団員希望者かな?おーい!ウチ!」
その声に反応したのは、例の少女、ウィッチ・ゼロトリー。ウィッチは彼女に気がつくとすぐさま駆け寄った。
「ここにおるってことは、そういうことでええんやな?」
「……しかし……私のような人間が舞台に立つ、など……」
「何を言うねん。その人の目を引く容姿は舞台の上やったら大きな武器や。素早く動かれへんくても自分やったらその一挙一動に観客は注目する。たとえそれが恐怖や奇異の視線でも、注目されたもん勝ちなんがサーカスや」
サーカス。あの個性豊かに輝く非日常になら、今まで必要とされず、認められなかった自分も埋もれてしまえるのではないか。
彼女が顔を上げると、目の前には小さな手が差しのべられている。
「どうや、ウチのサーカス団に興味あるやろ?」
ウィッチの言葉に、ぴくりと瞼が動いた。
今はただひたすらに、自分を必要としてくれた、認めてくれた彼女の事を信じてみたい。
薄らと開いた目に、一筋の光が差し込む。
彼女は脚の上に置いていた手をそろりと上げると、ウィッチの手に重ねた。
「演目の体験の前に、少しお時間を頂いてもよろしいですか?」
そう言うと、剤は遺体の山へと近付き比較的体の残ったものを選んで油を垂らした。
彼女はBlack widowに入団することになったものの、どんな演目をしたら良いのかが分からない。そこで、所作の綺麗さから踊りが良いのではないかという事で、まずは剤の演目を見学し、体験することになったのだ。
何をしているのか。それを聞いて良いのか分からず、剤の手伝いをするように彼女も傷の少ない遺体を探し始める。
「こちらの方も、燃やした方が良いかと……」
「ありがとうございます」
「いえ……」
顔は見れなかったが、その声色はこちらに笑いかけてくれているものだった。
こんなに優しくしてくれる人に対して、目すら合わせられない。改めて、こんな私がサーカス団としてやっていけるのか。彼女の最初からありもしない自信が揺らいで、胸が苦しくなる。
自然と彼女の頭は俯き、足元に視点が行く。その時、積み重なった肉の間から伸びる男の腕が一本、微かに動いた。
彼は遺体の山を蹴散らしながら静かに起き上がると、その勢いのまま、体に刺さったナイフを抜く。とうに限界を迎えている筈の体は、憎悪の言葉の代わりに喉から血を吹き出し、自らの平穏を奪った悪党へと駆け出した。
男は明確な殺意を込めてナイフを振り上げるが、作業中の剤は、死角から現れた男に気が付かない。
「剤さん……!」
彼女は咄嗟に剤の手を掴み、こちら側に引き寄せる。断ち切られた剤の髪がぱらぱらと宙を舞う中、全ての力を使い果たした男は倒れ伏し、事切れた。
どうやら刃先は剤の身体に傷を付けることはなかったようで、体勢を立て直した剤は切れた髪を撫でながら彼女に向き直る。
「………新入りの貴方にお恥ずかしいところをお見せしました。私の医師としての矜恃を守って下さりありがとうございます。」
剤が深々と頭を下げると、きめ細やかで美しい白い髪がなめらかに流れ落ちる。その一本一本は光を受けて煌めき、まるで繊細な糸で織り上げた絹のように輝いていた。
しかし、揃えられていたはずの毛先は、先程切られた為に乱れており、完璧な美しさとは言い難い。
「お気になさらず……それより折角の御髪が……」
「ああ、髪はさして気にしておりません………………、いえ、そういうわけではなさそうですね。貴方は、これ自体に興味がおありですか?」
剤の言葉に彼女はぎくりと肩を震わせる。どうやら髪を見ていた事に気が付かれたようだ。
頭に蘇るのは、あの母の憎悪と忌避と怯えが混じった瞳。拒絶への強い恐怖。
またもや居場所を失う絶望。
「……申し訳ございません。い、いますぐ、ここから出てゆきますので……!」
「その必要はありませんよ」
「…………、え……?」
自然と涙が頬を伝い落ちる。思わず顔を上げると、剤の優しく微笑む瞳と目が合った。
そして剤はそのまま長い髪を一纏めにしたかと思えば、伸ばした髪の肩から下までを切り、何が起こったのか分からないといった様子の彼女の目の前に差し出す。
「貴方のおかげで医者としての本分をまだ果たせそうです。感謝の証……になるかはわかりませんが、こちらを受け取ってはいただけませんか?」
「そんな……私なんかが、頂いて良いのですか……?」
綺麗で美しい、白い髪の束。彼女は恐る恐る手を伸ばし、壊れものに触れるかのように丁寧に受け取る。艶のある光沢は角度によって形を変え、宝石のように輝きながら彼女を魅了した。
「貴方のお気に召したようで何よりです」
「あ、ありがとう、ございます……。大切に……大切にしますわ」
彼女は白い髪の束を胸に抱きしめると、震える声で精一杯の感謝を絞り出す。
手のひらに触れるその滑らかな感触が胸の奥の不安を少しずつ溶かしていくようだった。
彼女はそっと机の上に白い髪の束を広げると、慎重に髪を細く分け取り、指先を器用に動かしながら一本一本を絡める。初めは不慣れな手つきだったが、集中するうちに次第にリズムが生まれた。柔らかく滑らかな髪をより合わせ、小さな輪を作り、それをさらに複雑に編み込んでいく。
やがてそれは、形づくられた流れるような曲線が美しい髪のレースになった。両手で持ち上げ、差し込む光に透かしてみれば、それは繊細な模様を描きながら力強く輝く。
「これが私の手で作れたなんて……」
「ああ、初めてにしては良い出来だ」
背後から聞こえた低い声にびくりと肩を揺らして振り向けば、すぐ近くに彼の顔があったもので、思わず椅子から転げ落ちそうになる。
彼の名はクイーンビー。自分よりも大きな背丈で堂々とした振る舞いの彼に、彼女は感銘を受けていた。
まさか、彼と話す機会が今訪れるなんて思ってもみなかった。
「声はかけたが、返事がなかったものでな。随分と熱中していたようだ」
「ご、ごめんなさい……」
「良い趣味をしているではないか。手に取ってみても?」
彼女がこくこくと頷くと、彼はすらりと長い指を伸ばし、編まれたばかりのレースを丁寧に持ち上げた。模様の一つ一つを吟味するように眺められ、気恥しさに頬が赤くなる。
「……見事だ。素材の美しさを際立たせる細やかなデザインに、髪の一本一本が命を宿したように輝いている」
「ありがとうございます。まだお名前は決まっていないのですが、新しいお友達です」
「ほう?他にも話を聞かせておくれ、と言いたいところだが、団長からの呼び出しだ。名付けを行う、この後舞台に来るように、と」
「……!はい、すぐに向かいますわ。今度はお茶でも飲みながらゆっくりお話させて下さいませ」
彼女はクイーンビーからレースを受け取ると、舞台へと急いだ。
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「最初は舞台に立ち、注目を浴びる事を恐ろしく感じました」
しかし、ウチ様のお声を聞くと今の私はBlackwidowのタランテラとしてここに立っている事を思い出せるのです。
屋根裏部屋に閉じ篭っていた化け物は、居場所を、役割を、仲間を、同志を、覚悟を、勇気を得て、人々を恐怖と静寂の世界へと引き摺り込む大蜘蛛へと成りました。
「私はBlack widowが一員、タランテラ」
そう在れる事が、何よりも誇らしいのです。
