全てを奪われたあの日から、復讐に縋って生きてきた。諸悪の根源、かの楽園の支配者は、今も尚この地上の何処かでのうのうと稼働を続けている。

なんとしてでも見つけ出し、仲間達の仇を討つ。その為に、自分は生き残ったのである。



P.N.Gは話終えるが否や、コホンと咳払いをしてデリックに視線を移す。

「さて、トリは任せた兄弟!」

「ああ、任された!……期待に応えられるかはさておき、だけどね!」

彼の言葉に剤は自身の胸に手を当てると、懐かしむように目を伏せた。

「あの時の事……懐かしいような、最近の事のような不思議な感覚です」

デリックもまた、サーカス団に入ってからの日々を思い起こす。その日常にはいつも彼女、剤の姿があった。

「剤には当初からお世話になりっぱなしだね。こんな手のかかる僕だけど、これからも傍に居させてくれるかい?」

彼は剤の姿をじっと見つめ、そっと手を取る。手袋越しに感じる互いの手の感触、思わず目を逸らしたくなるような甘い微笑みに言葉が出ず、剤はしばし黙り込む。

「……狡いですよ」

「ふふ。ごめんね」

剤は深く息をつくと、両手でデリックの手を包み込む。包帯まみれの手はひんやりと冷たく、体温を分けるように手と手を重ねるとデリックは息を飲んだ。

「私が手をかけたいの。こちらこそ、傍に居させて?」

彼の白い肌が徐々に赤みを帯びてゆき、唇は何かを堪えるように引き結ばれる。やがて、絞り出すように小さく呟いた。

「……参ったな」

「ふふ、お返しです」

「効いたよ、だいぶね!……さて、勇気も貰った事だし、話すとしようかな」



薬効や毒性の実験に解析、記録。試験管や顕微鏡、そして分析装置を相手にする日々は一見すると単調で退屈なものに映るかもしれない。

しかし、その分だけ奥深く、飽きることがなかった。積み上げられたデータの山を前に、彼は時に頭を抱え、時に興奮しながら可能性を探り続けた。

一つの結論が出れば、そこから新たな疑問が生まれる。その繰り返しに追われる日常は過酷でありながらも、満たされていた。

冗談を交わして笑い合う、疲労に沈む夕暮れ。

肩を叩き合って励まし合う、失敗の連続に落ち込んだ夜。

幼い頃から慣れ親しんだ友人や家族にも似た同僚達に囲まれた軍事研究所が彼の世界の全てだった。

時には夜通し実験室に籠り、薬品の調合やデータの再検証を行うこともあった。

神経をすり減らすような作業の連続だったが、誰もがその先にある成功を信じ、どれだけ些細な進展であっても彼らの間では歓声が上がり、それがまた次の挑戦への糧となる。

しかし、ユークロニアの思想に染められた友人の手によって仲間達は死に絶え、あの幸福はもう戻らないものとなった。


どこまでも続くかと思える真っ直ぐ街道は古びた看板や錆びついたガードレールに挟まれ、無機質な風景をさらに強調していた。彼は時折風で舞い上がる砂埃を吸わないよう襟巻きに顔を埋めると、くたびれた足にむち打ちながら荒れた舗装の上を歩き続ける。

体力的にも精神的にも負担は大きいが、足を止めるわけにはいかなかった。彼の目的地、ユークロニアの存在を確信できる情報はまだ得られていない。

それでも歩み続けていると、ふと遠くからエンジン音が聞こえた。音の方へと目を向ければ、ゴーグル越しに小さな黒い点が地平線の向こうから近付いてくるのが見えた。

おそらくトラックだろう。荒野を行き交う車は珍しくないが、こうした街道で出会う人々から情報を集めることは、彼の旅にとって重要な手段のひとつだった。

「さて、また試してみるか」

小さく自分に言い聞かせるように呟き、彼は道の真ん中に立った。トラックが近づくにつれて、その姿がはっきりと見えてくる。車体はくたびれていて、塗装もところどころ剥がれているが、それでもしっかりと走っているのがわかる。

デリックは手を挙げ、ゆっくりと大きく振った。

エンジン音が少しずつ弱まり、トラックは彼の前で停車する。窓が開き、中から顔を出したのは髭をたくわえた男性だった。彼の表情には少し警戒心が見えたが、それでもデリックの様子を見て悪意のない旅人だと判断したのだろう。

「どうしたんだ、坊主?こんなところで」

低く渋い声で問いかける運転手に、デリックはにっこりと微笑みながら運転席の横に立つ。

「やあ!そこの運転手さん、少しいいかい?」

そして、いつものように言葉を紡ぎ始めた。


「ユークロニアって場所に心当たりはある?」

「うーん……知らねえな」

運転手はしばらく考え込むように眉をひそめた後、申し訳なさそうに首を振った。デリックは心の中で少し肩を落としながらも、表情には出さずに明るく答える。

「ないかあ、時間取らせてごめんね!お詫びと感謝に、このデリック印の解毒薬でもプレゼントさせて貰えないかな?ここ、大気汚染が酷いだろう?」

「いいのかい?ありがたく頂戴するぜ」

運転手は驚いたような顔を見せつつも、デリックが差し出した小さな吸入器を受け取った。こうして渡り歩く中で、デリックの作る薬は感謝と共に受け取られることが多い。

「ありがとう、運転手さん。それじゃあ、気をつけてね!」

しかし、この街もやはりダメだった。運転手からの情報は得られず、ユークロニアへの道筋はまたもや途絶えてしまう。

軽く手を振ってその場を後にしながら、デリックは次の行動を考える。

彼は色んな場所を渡り歩きながらユークロニアを探していた。この土地も、その前に訪れた砂漠の街も、廃れた工業地帯も、どこも手がかりはない。それでも彼は諦める訳にはいかなかった。

弱った体を元気付けるため、彼は立ち止まると懐から注射器を取り出した。

彼の作った栄養剤が詰まったそれを腕に差し込み、手早く注入する。注射が終わると、ほっと一息つきながら地面に腰を下ろし、これまで集めた情報が詰まったタブレットを取り出す。薄いスクリーンに映し出される地図、メモ、写真。それらをじっと見つめ、次の手がかりを探る。

「殺人サーカス団には気をつけろよ。近くまで来ているらしいからな」

そういえば、そんなことをさっきの運転手が言っていた事を思い出す。

「殺人サーカス団……以前からユークロニアの敵対勢力候補として彼らの情報を集めてはいたんだよね。うん、次はそこに行ってみるか」

移動を繰り返すサーカス団であれば旅先で多くの情報を耳にするだろうし、ユークロニアについて何か知っているかもしれない。

是非とも組織としての考えも探っておきたいところだ。

デリックはタブレットをしまうと、もう一度立ち上がった。


サーカステントは、まるで夜空から切り取られた一片のように、荒野の街の中で異様な存在感を放っていた。入口の上には掲げられた大きな看板が掲げられており、蜘蛛と舞台の形状が不気味な印象を与えている。

にも関わらず、テントの外には多くの人々が並んでいた。子供たちの姿は見当たらず、並ぶのは皆大人ばかり。その顔には何かに魅入られたかなような、期待と興奮の入り混じった表情が浮かんでいる。このBlack widowというサーカスがただの娯楽ではないことを、誰もが理解しているのだろう。

テントの中へと足を踏み入れると、中は外から想像するよりも広々としており、中心に配置された円形のステージを取り囲む観客席は既に多くの人々で埋まっていた。

やがて公演が始まると、会場全体が熱気に包まれ、次々と登場する団員達は各々の個性豊かな演目を披露した。緻密であり大胆な一つ一つのパフォーマンスは痛烈なまでに美しく、その中でも特にデリックの目を引いたのは毒糸を操る大柄な女性だった。

彼女が舞台上の標的を次々と追い詰め、罠に絡め取っていくたび、観客席からは息を呑むような静けさと、それを破る拍手が巻き起こる。

命を奪い、奪われる、その刹那に芸術としての美しさを感じたのは彼の人生でこれが初めてだった。


気が付けば、公演は終わっていた。歓声と熱気の余韻が薄れ、観客たちは徐々に席を立ち、次々とテントの外へと消えていく。その流れに乗ることもできず、デリックはただそこに立ち尽くしていた。

全身を包む感覚がこれまでとはまるで違う。

冷たい空気が肺を満たす。然して血液は炎のように熱い。強く脈打つ鼓動。耳に残る音の残響と目の奥に焼き付いた光の影。

デリックの感性は、この日初めて、これほどまでに研ぎ澄まされた。

息を呑むほどの美。命を削るような儚さ。人間の極限を舞台上に凝縮したかのような輝き。

ステージで繰り広げられた光景は、彼の中で新たな何かを呼び覚ましていた。これまでの人生で味わったことのない感動に、胸の奥が締め付けられるようだった。

それは復讐心とも絶望とも異なる純粋な衝動。目の前に広がった新たなる世界に触れたデリックは、足を一歩も動かせなくなっていた。

「もはや、復讐だけでは飽き足りない……」

心の奥底から静かに湧き上がる言葉が、頭の中で何度も反響する。

あのステージの輝き、その中で燃え尽きる生の一瞬。観客たちを圧倒する美しき死の刹那。

自分もあの世界に身を投じたい。ただそう願う気持ちが止まらない。

彼らに尽くしたい。自分の持つすべてを捧げ、この素晴らしきサーカスをさらに輝かせる一助となりたい。

科学の力で、薬剤の知識で、あるいは手品師として。それが自分にできるすべてならば、命を賭しても構わない。

そして、もしも自分自身があのステージに立ち、命を削り、美しい生を、そして死を魅せることができるのなら、それ以上の喜びはない。

気づけば、デリックは強く拳を握りしめていた。体中に宿る新たな決意を胸に、荒い息を吐きながらふらふらと立ち上がる。

足元が頼りなく震えるのは、疲れのせいか、それとも興奮のためかは分からない。

ただ、足を進める先がどこであるかは、もうはっきりとしていた。


「サーカスしてるイメージ湧かんわ。無理やろ、帰りい。」

団長の冷淡な声が静かなテント内に響く。それでもデリックは一歩も引かなかった。

「一芸だけだ。一芸だけ見て欲しいね。」

言葉を終えると同時にデリックは肩に背負っていたくたびれたリュックを床へと放り投げると、その中から手際よく道具を取り出していく。

しかし、次々と並べられるのは奇術にしては異質なものばかりだった。試験管やフラスコ、色とりどりの薬品が詰まった小瓶、そして小型の加熱装置や精密な注射器。科学者としての経歴を反映したその道具の数々に、団長とその隣にいる白髪の女性は思わず目を細めた。

「ほう?」

「死ぬ気で磨いた芸だ。どうか、見届けて欲しい」

デリックが披露するもの。それは、彼が生き延び、復讐を誓いながらも、なお新たな生を求めた執念の結晶だ。


デリックの手が動き出した瞬間、雰囲気は一変した。

小さな試験管を手に取り、慎重に別の薬品を滴下。すると、液体は瞬く間に内側から黄緑の光を放ち始める。その光は次第に強まり、やがて試験管を透過して光が弾けるように煌めいた。

デリックが試験管を掲げると、光がテント内の壁に反射し、まるで星屑が舞うような神秘的な光景を生み出す。

それだけではない。試験管に注目させている間に調合された薬品は煙を呼び、テント内を包み込む。漂う香りはどこか懐かしく、不思議な安堵感を与えるものだった。

やがて拳銃を持ったデリックと大きな的が煙の中から現れる。

「腕に自信が無いもので。ゼロ距離でいくよ!」

いくつかの発砲音と共に銃弾は窓へと着弾する。

瞬間、銃弾は膨張し、花のように咲き誇った。それはまるで生命を持ったかのような美しさであったが、デリックがくるりと的を360度回転させると、そこには何も無くなっていた。

「気になるようならどうぞ、調べて貰ってくれて構わない」

二人が的を調べ終わる頃には、デリックの隣には人一人が入れる程の大きな水槽が組み立てられていた。

デリックは上から水槽に入り、蓋を締めると中で新たに薬品を調合し始める。

「僕が今から作るのは嘘偽りなく猛毒だ。この脱出に失敗したならば、命を落とすだろうね」

試験管から赤色の煙が立ち上る。ぎらぎらと輝くデリックの瞳は命を賭ける覚悟が示されていた。

水槽から煙が漏れている様子は無い。すなわち、脱出できるような隙間も無いということだ。

赤い煙は徐々に水槽を満たしてゆく。

「次に会う時は団員として迎え入れてくれるといいな!」

その言葉を最後に、彼の姿は見えなくなった。


一分が経った。

団員になりたいとBlack widowの門を叩いた奇妙な客人は、静かに息を引き取ったのだと二人は理解する。

「……これ、どうします?」

「変人の薬品漬けとして競売にかけてみるか?」

そんな事を話しながら、水槽に近寄った時だった。

「ちょっと待った!!!脱出成功!成功してるから!見て!」

水槽の裏から、デリックが現れたのだ。

デリックは団長の方へと目を向ける。彼女は呆気に取られたように口を開けたかと思うと、にやりと笑って拍手をした。

「自分やるやん!今からウチらのサーカス団の一員や、よろしくな!」

「君達を見て練習したからね。必ずやお役に立つとも、よろしくね!」

その言葉に団長は再び大声で笑いながら、力強く手を叩いた。

「ほな、早速歓迎会でもやろか!……いや、それよりもお前の毒煙、どうやって作ったか見せてもらわなあかんわ!」

デリックは笑みを浮かべながら頷き、再び肩の荷物を掴むと団長と硬い握手を交わす。

その姿は復讐者の影だけでなく、新たな未来に向けて輝きを放ち始めたかのようだった。



「情けない話だけど、握手の後は糸が切れたように倒れてしまって。目が覚めたら医務室のベッドに居たよ。そして、ウィッチさんから僕だけの衣装を受け取って、ようこそを聞いて、ここの一員になれたと自覚した時の喜びといったら!」

無意味に失われた全てを受け入れられなかった。

弱った体を動かし続ける意味が欲しかった。

自分の研究成果を正しく役立てたかった。


「僕は稀代の裏方さん、デリック・ディリック」

この楽園の為にこの身を尽くそう。